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ナポレオン・ボナパルト 決して表に見せることがなかった気になる性格とは!?


ナポレオン・ボナパルト。シルクハットみたいな帽子を被り、馬に陽気に乗っている姿が有名かと思います。ナポレオン・ボナパルトが実際、何を成し遂げたのかは分からない人も多いです。

フランスのみならず、ヨーロッパを震撼させたナポレオン・ボナパルト。明るくたくましそうな性格ですが、そのナポレオン・ボナパルトが明かした信じられない性格についても見ていきます。

1.生涯

ナポレオン・ボナパルトは、1769年、コルシカ島の貧しい貴族の家に生まれます。幼い頃に兵学校に入り、後にフランス革命政府の軍人となります。

1796年、イタリアの遠征でオーストリア軍を撃破し、カンポ・フォルミオの和約にて南ネーデルラントロンバルディアを獲得し、世間に名を知らしめるようになりました。1798年、エジプトに遠征しました。

その頃、フランスの総裁政府は弱体化しており、チャンスと思ったナポレオン・ボナパルトは、1799年に無断でパリに帰り、ブリュメール18日のクーデターを起こしました。権力を握りました。

12月24日に革命暦第8年憲法を布告して、フランス革命を終わらせます。ここで、ナポレオン・ボナパルトは統領政府を発足させ、自ら第一統領となります。実質の独裁政権の始まりでした。

統領政府内では、フランス銀行を設立、通貨発行、教育改革など安定を図りました。1801年には、因縁のローマ教皇と和解(コンコルダート)が成立しました。マレンゴの戦いでは、オーストリア軍を撃破し領土を拡張しました。

1804年、自身が参加して制作したナポレオン法典を発布します。法の下の平等、労働の自由などを記載した民法典となります。しかし、良いことばかりではありませんでした。フランス植民地のハイチで独立運動が起こり、抑えきれなかったのです。ハイチは独立しました。ナポレオン・ボナパルトにとって初の敗北でした。

ナポレオン・ボナパルトはこれだけに留まらず、ナポレオン戦争と呼ばれる戦争を展開していきます。1804年にナポレオン1世として即位、皇帝にまでなってしまいました。ノートルダム大聖堂自ら戴冠したとされています。

帝政が始まったのですが、1812年から上手くいかなくなりました。ロシア遠征に失敗したのです。ヨーロッパ各国で解放戦争も起こり、ナポレオン・ボナパルトは退位します。エルバ島にしばらくいた後に復位しますが、ワーテルローの戦いに敗れてセントヘレナ島に流されます。1821年、ナポレオン・ボナパルトは亡くなります。

2.知られざる性格

ナポレオン・ボナパルトは、我が道を行く独裁者というイメージが強いと思いますが、反対に人間関係に悩み、他人とは相容れない引っ込み思案な性格も見せていたそうなんです。

ナポレオン・ボナパルトは、幼い頃、とても優秀だったらしく、抜群の成績をおさめたそうです。勉学については申し分なかったのですが、性格に少々難があったのです。自己中心の性格で、喧嘩をすることも度々ありました。

軍人学校時代は、あまりにトラブルが続いたため、いじめにも遭いましたナポレオン・ボナパルトは、いじめを避けるために少し離れた小屋に一人閉じこもって大人しく過ごしていたようです。そこで本をたくさん読み、教養を身につけたといいます。勤勉な性格でもあったのです。それが皇帝ナポレオン・ボナパルトとなる第一歩だったかもしれませんね。

また意外なことに、ナポレオン・ボナパルト猫が嫌いだったそうです。あまりの恐怖の余り、戦争中に見つけた猫を剣で串刺しにして殺したという驚きのエピソードもあります。

ナポレオン・ボナパルトは、軍人から皇帝になった勇敢な男という印象が根強いですが、こうした教科書に載ってないシャイな性格も、もちあわせていました。

3.まとめ

ナポレオン・ボナパルトは、ヨーロッパ中を駆け巡って皇帝にまで登り詰めたので、かっこいいと思ってました。数々の戦争も打ち破って天下を取ったのですから。

しかし、少し変わった性格をしていたことも知れて見方も変わりました。ナポレオン・ボナパルトは、どこか強気に生きてきたんだなと。臆病な性格を奮い立たせながら、天下を統一してきたのだと分かりました。

ナポレオン・ボナパルトがいじめを受けていたなど想像にもしなかったです。まさしく山あり谷ありの人生だったのですね。思いもしない性格も知ることができて楽しかったです。