武帝。恐らく漢の時代で一番勢力があった時期の皇帝だと思われます。他の勢力を圧倒しますが、国内の民衆には風当たりが強かったそうです。
巨大帝国をつくりあげた武帝の生き様を見ていきます。
1.生涯
武帝は前159年に誕生します。わずか16歳で即位します。若いといえど、中央集権化を押し進めていきました。まずは郡県制の土地を拡大し、全土への統一的支配を完成させ、中国南部や朝鮮半島にも郡県制を拡大させました。
官吏登用制度では郡県制を基盤として、郷挙里選の制度を設け、人材登用を図りました。統一国家の理念として薫仲敍の意見を取り入れ、儒家のみの路線を打ち出し、帝国の路線を明確にしました。
呉楚七国の乱を境として諸王に対する統制は強化され、実際には中央政府から派遣された官吏によってなされていきました。
武帝は対匈奴の政策を模索し、前139年に張騫を大月氏国に派遣しました。匈奴に対する軍事行動は前121年に西域の匈奴勢力を一掃しました。
前112年にはベトナムを滅ぼし、日南郡を置き、前108年には朝鮮半島に進出して直割領とします。その勢力は中華以外にも拡大し、文字通りの「漢帝国」を完成させました。
盛んな外交と土木事業は帝国の財政を圧迫したため、財政再建を図る必要がありました。重税策をとり、塩、酒、鉄の専売制や均輸法、平準法によって財政の安定を図りました。
武帝の財政政策は国の再建を図ることにあり、その目的は充分に達せられたそうです。増税の標的となったのは農民でなく、大商人層でありました。
前104年、始皇帝以来の儀式を行い、その年に初めて暦を改定し、太初暦を制定しました。武帝の帝政は54年間に及び、前87年に亡くなりました。
2.長すぎた帝政
武帝は17歳で即位し、70歳まで55年間皇帝の座にありました。しかし、長すぎた在位は悲劇も生みました。
晩年の武帝は神仙思想に陥り、皇后を見捨て若い女にうつつを抜かすようになりました。31年間もそのままであった皇太子は、もうろうとした武帝を一挙に葬ろうと考え、クーデターを起こしましたが失敗しました。皇后と皇太子は追い詰められ、自殺してしまいました。
その4年後に武帝も亡くなります。
3.まとめ
思ったよりも暴君ではなさそうですが、派手に行った外交と厳しくした国内政策がきつすぎましたかね。重税に民衆どころか大商人まで敵に回した武帝は最後に追い詰められたと思います。
晩年も悲惨ですね。身内にクーデターを起こされるとは無きにしもあらずでした。