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メフメト2世 物々しい雰囲気からは想像がつかない征服を企てた帝王の実情とは!


メフメト2世。オスマン帝国の国王であり、当時最強であったビザンツ帝国を滅ぼした人物であります。メフメト2世は、次々とイスラム圏以外にも勢力を及ぼし、一躍時の帝王となります。

やみくもに領土を拡大させ、世界を震撼させたかに思えるメフメト2世。しかし、征服を企てるだけではなく、内政は民が困らないように配慮していたそうです。詳しく見ていきます。

1.生涯

メフメト2世は、1432年に当時の国王のムラト2世のもとに生まれました。生まれた都市はバルカン半島に近く、キリスト教の影響が強いとされヨーロッパの商人や外交関係の人が行き交っていたそうです。

そのようなキリスト教の文化で育っていったせいか、ルネサンスなどの文化に興味を持つようになっていました。10歳頃になると、スルタンの後継人になるためにアナトリアの知事に就きました。メフメト2世は運動を好んでいたようですが、この地で学ぶうちに教養をしっかり身に付けたようです。

12歳になると、父のムラト2世から帝位を譲り受け、若き国王が誕生しました。しかし、これを見てハンガリーポーランド軍オスマン帝国に侵攻してきたのです。残念なことにメフメト2世は若すぎて対処しきれなかったので、ムラト2世がもう一度、復権して対処しました。

ムラト2世の死後、再び王位に就いたメフメト2世はビザンツ帝国を攻めようと企てます。この頃はビザンツ帝国と交流もあったため、部下が反対しましたが、メフメト2世は押し切って侵攻しました。このとき20歳くらいです。

侵攻したのはいいものの、やはり巨大な帝国であるビザンツ帝国はそう簡単に落とせません。しかしメフメト2世は策を練り、1000年以上続いたビザンツ帝国を遂に陥落させます。コンスタンティノープルを制圧すると、メフメト2世はそこをイスタンブルと変えます。ここでの活躍で征服王と呼ばれるようになったのでした。

ビザンツ帝国を滅ぼしたあとは30年余り国王として存在していました。ハンガリーなどのヨーロッパとのたたかい、地中海のイタリアなどとも戦い、功績を残していきました。

そんな戦い続けたメフメト2世ですが、東へ遠征に向かっている途中で腹痛を感じ、イスタンブルに近い都市で亡くなりました。こうして、コンスタンティノープルを制圧し、軍の強化をしてオスマン帝国を世界に知らしめたメフメト2世はスルタンとして名実ともに名を轟かせました。

2.兄弟殺しを容認して広めていた

メフメト2世は兄弟を殺したとしても罪としないとするのを定着させたそうです。ウラマーと呼ばれるイスラーム法を学んだ法学者に無罪であることを認めさせていたのです。

メフメト2世以降は、オスマン帝国では兄弟殺しが悪ではなく、むしろ平然と行われることになったのでした。

それなりに理由があり、後継者争いすることを未然に防ぐためだったそうです。オスマン帝国専制が進んでいく中で画一されていきました。

3.文化や芸術に関心を寄せていた

メフメト2世は、領土を拡充して、文化も制圧するかと思いきや、その地の文化はしっかり保護に努めた一面があります。

ヴェネツィアはメフメト2世の要望を受け入れ、画家のベッリーニコンスタンティノープルに招き、自身の肖像画を描かせたそうです。

ベッリーニは1年間滞在して、肖像画を描き続けていたようです。敵地でこのようなことができるのは異例です。

4.まとめ

戦争を続けて強権的な面が強いのは確かですが、征服した土地での文化や芸術の保護は、素晴らしいですよね。たとえ、戦争して敵国と対立関係にあっても、文化交流が途絶えないようにするのはそう簡単なことではないように思います。メフメト2世は、文化や芸術を受け継いだのだと思います。