楊堅。三国時代などの戦乱を終わらせ、久しぶりの統一王朝である「隋」を築き上げた人物です。皇帝の名は「文帝」といいます。
どのようにして、混乱していた中国を統一へと導いたのでしょうか。見ていきます。
1.生涯
楊堅は、541年、北朝の鮮卑の武人の家に生まれます。575年、35歳の時に北周の将軍として水軍3万を率いて黄河を渡り、北斉を攻撃します。579年に北斉を滅ぼします。北周の皇太子が即位すると、楊堅も外戚として大前疑という最高位に就きます。
皇太子も若くして亡くなり、楊堅も実権を強大化させます。楊堅は北周の皇帝の禅譲を受け、581年に即位し、隋の初代皇帝として604年まで即位します。隋を完成させたのです。ここから、鮮卑と漢人の融合国家を発展させ、新たな中国史を築き上げていくのです。
即位の年、開皇律令という律令制度を制定し、北魏以来の租調庸制や府兵制などの軍国体制を継承しました。587年には、初めて科挙を実施し九品中正に代わる人材登用のルールとしました。また、黄河につながる大運河の建設にも着手しました。
楊堅は604年、重い病気にかかります。病身の楊堅に、実は寵愛の女性と太子広という息子がいました。太子広は後に耀帝となります。この女性に息子の耀帝が迫ったのを楊堅が知ると、激怒し皇太子にしたことを悔やみます。一方、この様子を知られた耀帝は、楊堅の寝室に刺客を送りこませたそうです。まもなく、楊堅の容態が急変し、亡くなりました。その後、耀帝は楊堅の寵愛していた女性と、何もなかったように一夜を過ごしたそうです。