煬帝。隋の2代目皇帝として君臨した人物です。楊堅とは違い、かなりの暴君として知られているようですが、実態はどうなのでしょうか。どこか優しい一面もあったのでしょうか。我がままに生きてきた最期はどうなったのでしょう。
帝国と一緒に短い最期を迎えた皇帝。その様子を見ていきたいと思います。
1.生涯
605年、煬帝は父の楊堅の一大事業として、大運河建造を始めました。運河建造は、同時に軍事的な目的もあり、中でも永済梁は高句麗遠征に備えた軍需物資輸送を目的としていました。
しかし運河建造は、民衆に非常に重い負担となっていたことも事実です。大運河の建造は華北と江南を結ぶ初めての一大事業でした。中国の経済的な統一をもたらしたのです。
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607年、日本の聖徳太子が部下である小野妹子を隋に派遣しました。しかし、聖徳太子が書いた国書に無礼な文言があったため、煬帝は不快に思いましたが、朝貢を受ける立場で受け入れ、翌年には煬帝の部下を日本に遣わしました。
このようにして、日本と中国は正式な国交が結ばれました。しかし、その背景には高句麗遠征があったので、煬帝としては、日本と結んで自分の味方に付けたいという考えでした。
612年から始まった高句麗遠征は、3度に渡るも失敗し、これに呆れた民衆の心も離れていきました。そして618年3月、煬帝にしびれを切らした部下によって離宮の揚州で暗殺されます。即位してから15年も立たずに。こうして煬帝は不遇な最期を迎えます。先代の楊堅が築いた隋も煬帝と一緒に呆気なく滅亡してしまいました。
2.知的な性格
大運河の建造には100万人もの民衆を動員し、急速に仕事をさせたという事実がありますが、人数を増やすために多数の女性も参加させたそうです。民衆に仕事を与えたという良い部分がありますが、結局出来上がった運河は、煬帝の私用で使うことも多かったそうです。
煬帝が皇帝になる時期には、兄弟の即位を恐れて暗殺や武力による制圧で抑えていきました。また、過去に廃止された残虐な刑罰も復活させたそうです。
煬帝は暴君として知られていますが、一方で、詩人という意外な面も持っていました。多数の文学作品を残しており、後々高い評価を受けています。例えば代表作として、「野望」、「春江花月夜」があります。