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アレクサンドロス大王 最強だった32歳がなぜ!?2つの驚きの死因とは!?


アレクサンドロス大王。正式には、アレクサンドロス3世といいます。アレクサンドロス大王は、アルゲアス朝マケドニア王国の王であり、ギリシア周辺のみならず、エジプトの王も兼ねた最強のイケメンといわれる人物です。生まれて一度も戦に負けたことはないとか。

東方遠征を行い、インドにまで遠征を広げました。しかし、巨大帝国を創り上げる道中で、突然亡くなります。それも32歳の若さでした。

色んな説がありますが、どうなんでしょう。見ていきます。

1.生涯

アレクサンドロス大王は、前356年にマケドニア王国で父のピリッポス2世と母のオリュンピアスの間に生まれます。13歳の頃には、父の働きかけで哲学者のアリストテレスに学問を教えてもらいました。アレクサンドロス大王熱心に学んだとされています。

そんな中、前336年に父のピリッポス2世が暗殺されたため、20歳でアレクサンドロス3世として即位します。マケドニアの王の位置にいたので、ギリシアの同盟国に対しても支配していました。

アレクサンドロス大王は、ギリシア周辺をしっかり足固めしてから、東方遠征へと出かけました。東方遠征軍はペルシア帝国軍を破り、エジプトやメソポタミアを制圧していきました。

前330年には宿敵であったペルシア帝国を滅ぼしたのです。これによって、世界帝国であるアレクサンドロスの帝国が完成しました。アレクサンドロス大王はオリエント界を征服する中、エジプトでファラオとして振る舞いました。

しかし、前323年にバビロンで病気にかかり、亡くなりました。わずか32歳でした。アレクサンドロス大王の死後は後継者により、分割支配することになりました。こうして世界帝国は終わりを告げることになるのでした。

短期間で終えますが、ギリシア文化とオリエント文化が混ざったヘレニズム文化が誕生するきっかけにもなりました。

2.はっきりしない死因

アレクサンドロス大王の死因は、色んなことが言われているようです。専門家が今も探っていますが、2つの説を紹介します。

1つ目は病死説です。湿地に行き、そこでマラリアに刺されて発症、または、川の水を飲んでそこからバクテリアに感染したというのです。しかし、アレクサンドロス大王は10日間苦しんだというので、西ナイル熱ともいわれています。

2つ目は毒殺説です。いわゆる暗殺です。アレクサンドロス大王は、性格に問題を抱えていたそうです。気性が荒かったり、征服地に異文化を持ち込んで反感を買ったりと。毒女に殺されたとか、アリストテレスに恨まれて殺された、ということまでも言われているようです。

3.死後の行方

アレクサンドロス大王は、バビロンで病気にかかり亡くなります。死後は混乱が続きました。遺体は、そのまま地面に横たわっていたそうです。後継者が決まらずに揉めて、放置されていました。

そんな時に、アリスタンドロスに霊が移り、不思議なことを言い出します。アレクサンドロス大王を埋めた土地は幸福になるだろうと。

ディアドコイと呼ばれた将軍達は、ここでも自分の土地に埋めようと争っていました。その結果、プトレマイオスが引き受け、遺体をエジプトのアレクサンドリアに埋めることになりました。

4.まとめ

いくら最強でも、死ぬときは呆気なかったですね。ギリシアからスタートして、エジプトや遠い西のインドにまで勢力を広げていったのは仰天です。すごい欲ですね。

歴史上、最強といわれるペルシア帝国を征服したんですから、ものすごい勢いだったと思います。アレクサンドロス大王も20代だったので若いのに頭もキレているなと。

アレクサンドロス大王は気性が荒かったそうですが、優しいだけだと、ここまでこれないとも思いました。