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ガンジー 端麗な糸車と断食までして伝えたかったある思いとは!?


マハトマ・ガンジー。インドで有名な人物といえばガンジーを思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。彼は非暴力・不服従を唱え、インドを独立国家へと導きました。

ガンジーは独立を唱えるだけでなく、断食などもして視覚的に訴えることで多くの人の心に刻み込まれました。

何を伝えたかったのでしょうか。そんなガンジーの人生を追ってみます。

1.生涯

マハトマ・ガンジーは、1869年にインドのポールバンダルで誕生します。庶民のカーストに生まれ、13歳で結婚します。幼い頃のガンジーやんちゃ坊主で、成績が悪く、ヒンドゥー教で禁じられている肉食を繰り返したり、金を盗むなどの行為をしていたそうです。18歳の時には3人の子をもうけていました。

18歳の時には心機一転し、イギリスへ留学します。ロースクールで弁護士の勉強をします。そして猛勉強して1891年に弁護士資格試験に合格しました。最初は弁護士としてうまくいきませんでしたが、南アフリカでのムスリム商会の起訴案件を担当し、開業しました。

南アフリカで白人による人種差別を目撃します。弁護士にも関わらず、インド人というだけで荷物を捨てられてしまったのです。人種差別は収まらず、インドの選挙権を奪うという法案が可決されます。これにガンジーが立ち上がります。

ガンジー国民会議派にならってナタール=インド人会議を立ち上げ、書記として反対運動を始めました。具体的には登録証を焼き払うというもので非暴力・不服従の始まりでした。その運動はサティヤーグラハと呼ばれました。

1919年にはイギリスが民族運動を弾圧するためにローラット法を制定させると激しい反英運動になりました。第一次非暴力・不服従運動は抗議を表すために仕事を放棄し、全国を休業状態にして断食と祈りによってイギリスへの抵抗を呼びかけました。

インド内のイスラム教徒も反英運動を始めるとガンジーも強く支持して非協力運動を開始しました。20年かけて非協力によってイギリスを追い詰めましたが、中でも象徴的なのが手紡ぎ車で糸を紡ぎ、手織りで綿を織り上げ自国産業の育成へと進めていきました。

しかし、行き過ぎた非協力運動で混乱も起き、ガンジーは、一方的に中止を言い渡しました。これがきっかけでガンジー指導力も低下していきました。

行き詰まったガンジーが考えたのが塩税反対です。塩という必需品をイギリスの専売にして重税を課されているとして植民地の不正であるという訴えは民衆の心を掴みました。1930 年に第二次非暴力・不服従運動を開始し、塩の行進と呼ばれました。

その後、イギリスと会議が開かれますが身内の裏切りにあい逮捕されます。出所後は各地を歩き熱心に解放を唱えました。

第二次世界大戦では、イギリスがインドに参戦を求めるも拒否します。交渉も拒否し、1942年にインドを立ちされ、と宣言します。一方でムスリム連盟は協力を表明し、国内でもヒンドゥームスリムの溝は深まりました。

大戦後はイギリスがついにインド独立を認めました。しかし、ガンジーの説得に関わらずヒンドゥームスリムは分離することになり、インドとパキスタンは分離しました。

そんな中でもガンジー必死に説得に回りました。ムスリムヒンドゥーがもう一度一緒に暮らせるよう。しかし、ヒンドゥー教急進派にはガンジームスリムに妥協しているとされ、1948年に熱狂的なヒンドゥー教徒の青年によって暗殺されました。

2.断食という抵抗手段

ガンジーが、非暴力としてよく使った手段が「断食」でした。この断食は、母のプトリバーイが健康法の一環として行っていたものでした。ガンジーはイギリスに対して行ったものが有名ですが、それだけではありません。

弁護士時代に、紡績工場の労働者から労働争議を依頼されます。労働者はストライキをしますが、改善しませんでした。ガンジーは向上側と労働者側の間に立って、調停しようとするも、うまくいきませんでした。

悩みに悩んだガンジーは、労働者のために断食をすると言い出します。「この労働争議が終わるまで、私は一切の食べ物を口にしない」と。

これには工場側も大変驚きました。ガンジー断食を始めて3日後に、ついに工場側が労働者側の抗議を受け入れたのです。

3.まとめ

善い人です。なんとなくわかります。弁護士として恵まれている中、人種差別に対して声を上げる。弁護士のままであったら順風満帆な人生を送れたでしょう。根深い問題に対してじっくりと取り組む。ガンジーが考えた暴力でなく、非暴力という点が素晴らしいと思います。断食までに至るとは覚悟が違いますね。ガンジーがしたことは危ない行為ですが、イギリスから守ろうという決心が固いことが伺えます。

人の心を掴むのは大事ですが、自分から発信することは中々できることではないですね。しかも、イギリス相手だけでなく、対立していたムスリムに対して何とか一致したかったガンジー

結局分離しましたが、独立を果たしてもなおパキスタンに訴えかけていたことは胸が痛みます。そのことがきっかけで暗殺されるのですから。優しい人だったのでしょう。