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フランソワ1世 自由奔放に生きるも、突然訪れる謎めいた死因とは!?


フランソワ1世。名前からも分かるようにフランスの王です。フランソワ1世は、のびのびと育ったらしく、性格も明るかったそうです。身長も2メートルを超え、貫禄も十分でした。

そんな順風満帆なフランソワ1世を襲った死因とは一体何なんでしょうか。見ていきます。

1.生涯

フランソワ1世は、1494年にコニャックで誕生します。初の男の子だったので母親にとても愛されました。

1514年には、ルイ12世の娘のクロードとフランソワ1世が結婚し、将来ある王として見込まれ、教育を受けます。20歳で国王となります。

即位してからは、先代から続いていたイタリア戦争を再開し、ミラノを攻略しました。1519年、ハプスブルク家カルロス1世と神聖ローマ皇帝選挙を争いました。

フランソワ1世はフランス王として初めての立候補であったので、苦戦を強いられました。一方のカルロス1世は、フッガー家など金融家の協力もあり、フランソワ1世を上回りました。よって、神聖ローマ皇帝に選出されました。

カルロス1世がカール5世となって、ハプスブルク家ネーデルラントとスペインとフランスを板挟みの状態になりました。フランソワ1世はハプスブルク家に包囲されるのを恐れて、イギリスのヘンリ8世と会見を行い協力関係を築こうと試みます。しかし、ヘンリ8世の協力は得られませんでした。

フランソワ1世は、大陸の進出に興味を抱きました。カルティエを船長とする船団を派遣したのです。ラブラドル半島など、フランスのカナダ植民地へ繋げていきました。

カール5世とは相変わらず一進一退の攻防が続いて、1535年、ミラノ公国皇位継承で争いました。しかし、カール5世とヘンリ8世が結束したことで後退し、1544年のクレピーの和約で講話するに至りました。

フランソワ1世は、ルネサンスの文化を保護したことでも知られています。あのレオナルド・ダ・ヴィンチを招いたことでも有名です。


ヘンリ8世の記事はこちら
deutschlandworld.hatenablog.com

2.謎の死因

フランソワ1世がフランスにルネサンスの文化を花開かせて、戦争も一段落した頃、体調を崩してしまいます。

1547年に57歳の若さで突然、亡くなってしまうのです。原因は定かではないそうですが、梅毒といわれてます。

フランソワ1世は若い頃から梅毒に感染しており、その症状が表れたためというのです。イタリア戦争で大流行して、そこで感染したものと見られます。

3.まとめ

フランソワ1世は、明るい性格だったので、戦争は避けたのかなと思ってましたが、積極的でしたね。フランスは地理的にヨーロッパの真ん中にあるので、動きづらいです。フランソワ1世も苦戦したものでしょう。

講話を結んだのは、寛容ですね。状況をよんで判断したと思います。ルネサンスの文化保護も行うなど文化人だと伺えます。