チャールズ・ダーウィン。生き物が好きな人は、誰でも知っているはずです。進化論という言葉をよく耳にするかと思いますが、一見すると難しそうですよね。ダーウィンの人生を知っている人はごくわずかです。
生物界の分岐点を切り開いたダーウィン。一種のマジシャンかと思うほど、新発見の数々や功績を私達に残してくれました。さっそく見ていきましょう。
1.人生
1809年、チャールズ・ダーウィンはイングランド西部の町、スルーズベリに裕福な家庭の次男として生まれます。父であるロバートは医者であり、母は1817年、ダーウィンが8歳の時に亡くなりました。
幼いダーウィンは植物のコレクションに並々ならぬ興味を持ち、既に自然科学者の片鱗を見せていました。学生時代のダーウィンは語学が苦手で決して優秀ではありませんでしたが、ユークリッド幾何学やシェイクスピアの歴史劇など様々な分野に興味を持っていたといいます。さらに、銃で鳥を撃ち落とすことが好きだったようで、初めて獲物を捕えた時は興奮して手が震えるほどでした。
1825年、ダーウィンは医者になるためにエディンバラ大学に入学します。彼は大学の講義について、「読書に比べて優れた点はないし、多くの点で劣る」と述べています。肝心の医学に関心が向かわず、進路は自然科学に傾いていきました。これに見かねた父は、ダーウィンを牧師になることを勧め、1828年、ケンブリッジ大学に入学させます。
エディンバラ大学同様、ケンブリッジ大学でもあまり学問は、はかどらず大学生活は時間の無駄だったどころか、もっとひどかったといいます。しかし、ダーウィンは持ち前の熱心さで昆虫採集に励むなど着々と準備していました。
ケンブリッジ大学の卒業後は、植物学の教授から「ビーグル号」乗船を勧める手紙が届きます。ダーウィンは父を説得し、ビーグル号の乗船に付き添い、太平洋を廻り、様々な土地の動植物や地理を観察して廻りました。ガラパゴス諸島にも渡りました。この時の経験をまとめたのが、「ビーグル号航海記」です。
ビーグル号の航海はダーウィンの自然科学者としての知名度を上げました。彼はイギリスに向け記録を送っており、いつの間にか本国で評判になっていたのです。「群を抜いて人生で最も重要な出来事で、生涯の進路を決定した」と語っています。
ビーグル号には不思議な話があり、当時は骨相学が流行っており、ダーウィンの鼻は船旅に適した精神力を感じさせない、という理由で乗船を拒否されかけたといいます。
ダーウィンは、ビーグル号の経験から得た知識をもとに仕事に励みます。「種の起源」の発表の20年前、1837年には形を成し始め、資料の収集に努めます。「種の起源」の執筆に対し、1842年、ようやく35ページの要約を書き上げ、1844年には230ページの論文が完成しました。1858年にウオレスがダーウィンと同じ進化論を発表したことで、翌年に「種の起源」が出版されました。
ダーウィンは、1842年から人里離れたハウスに住み、仕事に没頭していました。しかし、晩年のダーウィンはしばしば病気に悩まされ、仕事の中断を余儀なくされました。ダーウィンは実は「種の起源」の発表以前から病気がちでした。
晩年は趣向が変わり、小説が面白くなったといいます。一方、自然科学への熱意は衰えることはありませんでした。このように植物の研究を続けたダーウィンですが、1882年に73歳で亡くなります。
2.名言
時間を無駄に過ごすような人間は、まだ人生の貴重さを発見していない。
最も強い者が生き延びるのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き延びることができるのは、変化できる者である。