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ジャンヌ・ダルク 魔女狩りの犠牲!?己を貫いた18歳の勇姿を明かす!


ジャンヌ・ダルク。混乱していたフランスを一途な思いで救った不思議な人物です。その年齢は、なんと僅か18歳。しかも、当時とても恐れられていた「魔女狩り」の対象とされて捕らえられ、魔女裁判にまでかけられてしまいます。

初期の女性の指導者としても注目を集めているジャンヌ・ダルク。その魔女扱いされた真相に迫っていきます。

1.生涯

1412年1月、ジャンヌ・ダルクはフランスのドンレミ村で生まれます。父は貧しい小作農のジャック・ダルク、母はイザベルと呼ばれていた人物です。ジャンヌ・ダルクは母から信仰や家事を教えられ、家から遠くに出かけることもなく、家畜の世話もしながら過ごしました。ジャンヌ・ダルクは裁縫が得意な普通の少女でした。

その頃のフランスでは、イングランドの実質的な支配下に陥ろうとしていました。1415年、イングランド王のヘンリー5世がフランス北部に侵攻してフランス軍に大勝します。その後、イングランドはフランスのブルゴーニュ派の支援を受けます。

1420年、トロワ条約によりヘンリー5世は精神疾患のあるフランス王、シャルル6世の摂政になることが認められ、シャルル6世が死去した後、フランス王位を継承することが決められました。

しかし、1422年にヘンリー5世とシャルル6世が相次いで死亡したため、ヘンリー5世の息子がフランスとイングランドの両国の王となりました。一方、シャルル6世の息子の支持者は、フランス王室に王位を取り戻す絶好のチャンスと考えました。

この頃ジャンヌ・ダルクは、いつの日か幻想を見るようになります。時が次第に経つに連れ鮮明になり、大天使ミカエルと聖カトリーヌが目の前に現れ、ジャンヌ・ダルクフランスの救世主となるように告げました。

1428年、ジャンヌ・ダルクは幻視を見てヴォークルールに行き、守備隊長のロベール・ド・ボードリクールに会うように指示されます。ボードリクールは戸惑いましたが、ジャンヌ・ダルクを信じ、馬を与え、数人の護衛をつけることにしました。

ジャンヌ・ダルク髪を短く切り、男性の服を着て、敵地を突破し、王太子の王宮があるシノンに到着します。王太子も最初は戸惑いましたが、身分を隠した服装で隠れていた王太子ジャンヌ・ダルクが正しく見分けたため話を聞くことにしました。有名な神学者も交え尋問した結果、ジャンヌ・ダルク純粋に敬虔で謙虚な人物であると報告されました。

王太子は17歳のジャンヌ・ダルクに鎧と馬を与え、包囲戦であるオルレアンの軍隊に加わることを許可しました。オルレアン包囲戦イングランドが優勢でしたが、ジャンヌ・ダルクが加わると9日でイングランドの包囲は崩壊してしまいました。こうしてオルレアン包囲戦は決着します。その後の戦いでもフランス軍イングランド軍に大勝します。ジャンヌ・ダルクは、オルレアンの乙女とも名付けられていました。

一方、王太子ジャンヌ・ダルクの意見や助言を完全に信用していた訳ではありませんでした王太子側はジャンヌ・ダルクを警戒していましたが、王位につく予言に従い、シャルル7世となります。

転機が訪れたのは1430年のことでした。ジャンヌ・ダルクコンピエーニュ包囲戦に加わり、ブルゴーニュ派と戦うよう命じられます。しかし、戦いの途中でジャンヌ・ダルク落馬してしまい、城門の外に取り残されてしまいます。そのため、ジャンヌ・ダルクブルゴーニュ派に捕まってしまいます。魔女とされ、魔女狩りの標的となったのです。

ジャンヌ・ダルクは身代金と引き換えにイングランドへ引き渡されてしまいます。この状況下においても、シャルル7世は彼女の助言を完全に信用していた訳ではなかったのです。この事件から距離を置いてジャンヌ・ダルク魔女からの解放のために働きかけることはありませんでした

ジャンヌ・ダルクの身柄が渡されたのは教会の司教でした。この司教はジャンヌ・ダルクを正式に魔女としたので、魔術、異端、男装を含む70もの罪魔女裁判にかけられました。ジャンヌ・ダルク魔女裁判の中で、計10回の尋問を受けましたが、謙虚な態度で無罪を主張し続けました。

ジャンヌ・ダルクは、獄中で性的暴行や拷問の驚異にさらされていたため、軍服を着、紐できつく縛って身を守っていたとされます。しかし、このことが死刑判決を決定づけてしまったのです。魔女裁判の審問の際に、ジャンヌ・ダルクは男装を止めることにも同意していたからです。この決まりを破ったジャンヌ・ダルク魔女と判決され、死刑となりました。

1431年、ジャンヌ・ダルクルーアンの広場に連れていかれ、1万人の聴衆の前で火あぶりの刑に処せられました。魔女とされると、残虐な刑が執行されたのです。ジャンヌ・ダルクは焼け死にましたが、なぜか心臓だけは焼けずに残っていたというエピソードもあります。

1453年に百年戦争が終わった3年後、ジャンヌ・ダルク魔女裁判を再調査します。その結果、ジャンヌ・ダルク無罪とされました。功績が評価されたのです。1456年には、彼女を殉教者としました。1920年ジャンヌ・ダルクは魔女から聖人とされ、フランスの守護神へとなったのです。

2.魔女裁判の記録

15世紀に記録に残されることは大変名誉なことで、その対象は王や貴族、聖人などほんの一握りの人だけでした。しかし、ジャンヌ・ダルクに関しては詳細な生涯の記録や資料が残っており皮肉にも魔女裁判のおかげだとされています。

中世は、女性にとって生きづらい時代でした。女性が社会的な活動を行い注目されると「魔女」ではないかと勝手に疑われたからです。疑いをかけられ、理不尽に拘束されると魔女裁判にかけられました。さらに教会は、女性のプライベートのことまで踏み込むことが許されていました。ジャンヌ・ダルク処女だとされました。これも魔女ではないかと疑われた要因かもしれません。

ジャンヌ・ダルク不適切な服装だったため、教会のミサに参加するのを禁じられていたそうです。魔女裁判中も取り乱すことはありませんでした。

3.実在していたか

ジャンヌ・ダルクは、実在していたかという説もありますが、実在説が濃厚です。その証拠として裁判記録があります。家族が自作農家であったことは、魔女裁判の部分記録に残されています。控訴の記録にもあります。

1431年の魔女裁判では、ギヨーム・マンション率いる公証人がフランス語でノートをとり、魔女裁判後に毎回照合しました。4年後に記録はマンションとパリ大学の博士によってラテン語に翻訳され、正式な記録となっているのです。よって、ジャンヌ・ダルクは実在していたことが濃厚なのです。

4.まとめ

実直な人だったのですね。その実行能力が18歳とはとても思えないです。神から啓示を受けたことも驚きですが、それを自分の力で実行してしまうのも真似できないです。どんな時でも誠実な心を忘れずにいたのは揺るがない事実です。

恐ろしいとされた魔女裁判にかけられ、死を目前としても無実を最後まで訴え続けた姿は、当時の民衆からしたら神のごとく眩しく見えたことでしょう。とても10代の少女に出来ることではないですよね。それを魔女呼ばわりしたのは損失だと思います。不思議な話ですが、死刑された後、心臓だけ残ったというのもジャンヌ・ダルクの意志の強さかもしれません。

ジャンヌ・ダルクは映画化もされています。見てないですが、見てみようと思います。逆に、ジャンヌ・ダルクが魔女扱いされることなく、20代以降も生きていたら一体どんな人生を歩んだのか気になります。