インノケンティウス3世。中世を代表するローマ教皇です。神聖ローマ皇帝と対立して、破門したことは有名です。また、十字軍の強化にも乗り出したとして権威を奮いました。
そんな史上最強ともいわれるインノケンティウス3世ですが、最期はどんなだったのでしょうか。見ていきましょう。
1.生涯
インノケンティウス3世は、パリ大学で神学、ボローニャ大学で法学を学んで、そのあと若い年に枢機卿になるというトップクラスの道を進んでいきました。
この時代は十字軍による戦争が行われていましたが、インノケンティウス3世は第4回十字軍を結成したのですが、十字軍は、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープル攻撃するという暴挙に出ました。
十字軍が聖地の回復というのに反して占領したことでインノケンティウス3世は怒り、第4回十字軍を破門にしてしまいました。
コンスタンティノープルを征服したラテン人がラテン帝国を樹立すると今までの態度を一変。破門を取り消して東方教会のラテン化を指示しました。
ラテン帝国のギリシア人主教は罷免され、ローマ教会の信条を唱えることを強要しました。拒否した修道士は処分されました。
インノケンティウス3世は異端の取り締まりを強化していました。カタリ派の異端に対してはフィリップ2世に要請し、アルビジョア十字軍を使って根絶させました。
異端根絶をしている一方、修道士の活動は保護していました。フランチェスコ会の活動は認めました。
規模の大きな公会議も開きました。それがラテラノ公会議です。ドイツ、フランス、イングランドなど400人を超える司教、800人超えの修道院長など1500人以上参加したとされます。
正当信仰保護、異端の根絶、十字軍の再編成が目的でした。
インノケンティウス3世は権力を誇示していく途中で亡くなりました。55歳でした。