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シモン・ボリバル 南米独立の父!大陸に今も眠る彼の独立魂とは!?


シモン・ボリバル。あまり知られていないようですが、大きなことを成し得た人物です。19世紀の混乱していた南アメリカ諸国をまとめ上げ、独立へと導いたのです。

植民地奴隷で苦労を強いられていた大陸をどのようにして解放へと導いたのでしょうか。見ていきます。

1.人生

シモン・ボリバルは、ベネズエラの名門クリオーリョの家に生まれます。10歳になる頃には両親を早くに亡くしますが、乳母と家庭教師の深い愛情により育てられました。勉強は、都会の学校での初等教育と、一家の農場訪問を組み合わせたものでした。

家庭教師の一人であったシモン・ロドリゲスは、寄宿生として迎え、神経質で反抗的な彼を落ち着かせることに成功しました。シモン・ボリバルとの間に深い友情を育むことになるのでした。

15歳の時、軍の少尉になります。その後は、教養のために本国スペインに渡り、1802年にフランスに渡りました。ここでは啓蒙思想を学び、その後の人生においても影響を与えることになります。

スペインに戻ったボリバルは、マドリードマリア・テレサ・デル・トロ・アライサという貴族の娘を妻に迎えます。しかし、幸せは長く続かず、妻は悪性の熱病に罹り、一年後に亡くなります

この妻の死がきっかけで、祖国開放への独立運動に身を投げることとなったのです。モンテ・サクロの誓いと呼びます。

1806年、ベネズエラ独立運動に身を投じ、1811年に「ベネズエラ独立宣言」が行われました。これにより、中南米独立戦争が本格化しましたが、一時は敗れ、キューバに逃げました。1815年にスペイン軍にも負け、しばらくの間はハイチに身を潜めていました。

1819年、シモン・ボリバルはコロンビアのボヤカの戦いでスペイン軍を破りました。11月にはエクアドル、コロンビア、ベネズエラが合併してできた大コロンビア共和国」を樹立しました。

シモン・ボリバルは、その大統領を11年間務めました。ボリバルの政治的思想は、団結、正義、自由、平等、民主主義の5つでした。ボリバル主義として受け継がれています。

その後、ペルーを独立に導いたパンパの戦いアヤクーチョの戦いにおいても勝利しました。後々、独立した現在のボリビア」の国名は、彼の名である「ボリバル」からきたものです

しかし、大コロンビア共和国は、ベネズエラ議会から離脱するという部下達の裏切りにあい、各地の利害が対立して、1830年に分裂してしまいました。

ボリバルもショックで体調を崩します。ボゴタからの厳しい船旅を経て、衰弱しながらサンタ・マルタに到着しました。ボリバルは、数日の間に体調が悪化し、亡くなりました。47歳でした。

亡くなった死因については、結核ではないかといわれています。結核の治療に使ったとされるヒ素が直接的な要因ではという説もあります。結核は当時、致命的な病気でしたので、助かることはほぼなかったそうです。

2.独立した国

ボリバルは、自らの使命感と理想に絶対的な自信を持った人物でした。1805年にローマにて、自らの助言者や友人でもある人の前で、自分の生涯を南アメリカ独立のために戦うことを誓ったそうです。

この誓いをモンテ・サクロの誓いといいます。ボリバルは、ベネズエラが共和国になる前のベネズエラの軍人であり、政治家です。スペインからの南アメリカ解放に最も尽力した人物です。

現在のボリビアコロンビアエクアドルパナマペルーベネズエラの独立に貢献してきました。

3.まとめ

当時の南米は、白人の指導者と黒人の奴隷という二極化の構図でした。そんな状況の中、シモン・ボリバルは、白人で富裕層という恵まれた立場でありながら、支配に苦しんでいる奴隷の側について、独立を導いてきました。まさしく勇者ですね。ボリバルの地位ならば指導者になってもおかしくありませんが、現状を見て、変えていこうと思ったのかもしれません。

いくら富裕の身でも人々をまとめるのは至難の業だったはずです。しかし、それを成し遂げたのはボリバルの人望ゆえでしょうか。無駄だと思いながらもやり遂げたのは今後も語り継がれていくでしょう。

ボリビアでの例もあるように、人物名が国名になってしまうほど、彼が与えた影響は計り知れません。現在、南米諸国の栄光の架け橋となっています。