ルイ16世。フランス王朝最後の絶対君主です。我を貫いたことから不満が募った民衆からフランス革命を起こされ、ギロチンで処刑されたことでも有名です。また、ルイ16世には妻のマリー・アントワネットもいました。
意の赴くままに過ごしたかのようにみえるルイ16世。絶対君主であったのはたしかですが、わがままを突き通しただけではないようです。表にはされてない意外な性格もありました。
そんな壮絶な人生を送ったルイ16世を見ていきましょう。
1.生涯
ルイ16世は、1754年に父ルイ・フェルディナンと母マリー=ジョセフ・ド・サクスの間に生まれます。名はルイ・オーギュストといいました。1765年にフランス王太子となります。1770年にマリー・アントワネットと結婚します。マリー・アントワネットとは年齢が離れていましたが仲が良かったとされています。
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1774年にフランス王に即位します。ルイ16世は、財政再建に力を入れ、テュルゴーに当たらせました。
しかし、肝心のルイ16世は狩猟や宮中の舞踏会に明け暮れていました。1778年にアメリカ独立革命が起きると、フランスも参戦しました。フランスはアメリカを支持し、イギリスと対決しました。このことが重なり国内の財政難は深刻になっていきました。
1789年、財政難を無くすために貴族に対する課税を企て三部会を召集すると、第三身分が国民議会の開催を宣言しました。ルイ16世は、このことを認めようとはせず、武力弾圧しようとします。これに憤慨したパリ市民が立ち上がりフランス革命が始まりました。
パリ市民がヴェルサイユ行進を行い、逃亡していたルイ16世一家はパリに連れ戻されテュイルリー宮殿に入ります。1791年にはルイ16世がマリー・アントワネットと今度は国外逃亡を図りましたがこれも失敗します。いわゆるヴァレンヌ事件です。これが決定打となってしまい、王家一家は完全に国民の信用を失ってしまいました。
パリのサンキュロットが決起してテュイルリー宮殿を襲撃した8月10日事件によってルイ16世らはタンプル塔に幽閉されました。国民公会は王政廃止を決議します。これでルイ16世は退位することになったのでした。
国民公会の裁判ではルイ16世の処刑について激しく議論され、ロベスピエールは処刑に賛成しました。1793年に最終議決がされました。ルイ16世の有罪は全員一致で認められました。そして、執行猶予も否決され死刑が確定したのです。
1793年、ついにルイ16世はギロチンにかけられました。その年の10月に妻のマリー・アントワネットもギロチンにかけられました。
2.知られざる性格
ルイ16世は、身長190cmもある大変大柄な体格でした。性格も傲慢というイメージが強いですが、実際のところは、そうでもなかったようです。
身長は高かったのですが、本当はもっと痩せ気味で、聡明な顔つきをしていたとされています。にぎやかで遊びにいそしんだルイ14世やルイ15世とは、少し違っていました。舞踏会には熱中したものの、彼らほどではありませんでした。思慮深く、思いやりもある人物だったともいわれています。
気が優しかったので、周りからは名君だと称賛されていました。
こんなエピソードもあります。ルイ16世は民衆の家を見て回る趣味があったようです。これはルイ16世以前に途絶えていた良い慣習でした。ルイ16世なりに一般市民の苦しみを理解しようとしていたのです。即位してからは、農奴制を廃止したり、拷問を取りやめにするなど道徳的な行いを後世に残していきました。
3.まとめ
ギロチンにしたのが悔やまれるかもしれないです。歴史的には、民衆を苦しめた王とされていますが、肝心の良い点が書かれていなくて残念ですね。ルイ16世がいなくなってくれたから民衆は救われた、というイメージが強すぎると思います。
城から逃亡を図らなければ、もっと違う道もあったかもしれないですね。
しかし、身長が190センチもあるとは驚きですよね。それだけ食べていたのでしょうか。王位は退いても生きていれば活躍していたかもしれないです。