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始皇帝 4回も暗殺未遂に遭った間一髪の皇帝!気になる人生は!?


始皇帝。有名すぎるほどです。始皇帝は、「秦の始皇帝」とも呼ばれ、兵馬俑が多く並ぶ始皇帝陵が有名ですね。中国の最初の皇帝は、この人、とピンと来るほど、よく聞く人物です。

とても勇ましい皇帝の印象があるのですが、実際はどうなのでしょう。その勇ましさゆえに暗殺される危機も何回もあったとか。一体何があったのでしょうか。見ていきたいと思います。

1.始皇帝の主な人生

紀元前259年、始皇帝は秦の王族の子として誕生します。紀元前247年、13歳で秦の王位に即位します。この時代には、鉄の道具が出現し、経済も発展していました。

西安の北西に位置している咸陽(かんよう)は、紀元前4世紀より秦の首都が置かれていました。しかし、宮殿内の権力は始皇帝のものではなく、大臣の呂布葦(りょふい)が握っていました

始皇帝が22歳の時、母が愛人との間に子をもうけていたことが発覚し、始皇帝は愛人と子どもを処刑しました。さらに母の不倫を知っていたとして、呂布葦を罷免しました。この事件をきっかけに、始皇帝が権力を握り出したといわれています。

27歳の頃、始皇帝思想家の韓非と出会い、その思想に傾倒するようになります。韓非の「君主の患いは人を信じることから始まる」の教えを受け、強固な法体系と厳罰化を推し進めていきました。一方で、他国の文化や制度を取り入れ、能力があれば異国人でも登用するという柔軟な考えも持ち併せていました。

始皇帝は、その柔軟性を発揮し、韓や超、燕を順々に滅ぼしていきました。秦は残る4カ国に超越的な戦略を仕掛けます。そして紀元前221年、最後の一国、斎を滅ぼし、秦はようやく中国統一を果たします。

始皇帝本人は、それまで「政」と名乗っていましたが、新王国に相応しい名前を考案していました。そして考えた結果、「光輝く天下の統治者」を意味する「始皇帝」となったのです。

こうして中国初の皇帝が誕生しました。その後も道路の建設、文字や度量衡の統一など、秦の支配は急速に広まりました。

2.取り巻きの人物

始皇帝の母は趙姫(ちょうき)という人です。彼女は美しい踊り子であり、呂布葦という大商人の愛人となります。その後、始皇帝の父に寵愛を受け、始皇帝を「政」という名前で出産します。

趙姫は、始皇帝が皇帝になると皇太后となりますが、呂布葦と密通し子どもを身籠るなど問題行動を起こします。そして呂布葦が処刑されると、趙姫も幽閉されてしまいます

始皇帝の側近としては趙高がいます。彼は始皇帝に大いに気に入られ、始皇帝の末っ子である胡亥の子守りを務めます。なんと始皇帝の死後は胡亥を殺害しますが、彼も3代将軍に殺されてしまいます。皮肉なことに、このことがきっかけで、秦は崩れていき滅ぼされてしまうのです

3.暗殺未遂

始皇帝は、生涯に四度の暗殺未遂に遭います。

一つ目は、有名な燕の使者による暗殺未遂。秦の裏切り者の首を差し出した時に暗殺しようとしますが失敗します。逆に使者が殺され、燕も滅ぼされました。

二つ目は、始皇帝となり、楽器の名手が召し使えられた時に起こされた暗殺未遂。

三つ目は、巡遊中に張良から車に30キロの石を投げつけられた暗殺未遂。

四つ目は、夜間に首都の咸陽で賊に襲撃された暗殺未遂。権力が大きい分、常に命が脅かされていたそうです。

4.まとめ

始皇帝は取り巻きの人物といい、敵国といい、運が悪いほど命が狙われてますね。四度の暗殺未遂に遭う人は、そうそういないです。下剋上の世の中だったので、暗殺の危険も身近にあったかもしれません。

よく中国統一を成し遂げたなと感心しました。始皇帝は、韓非の教えを忠実に守ったからこそ、王朝を築き上げることが出来たと思います。暗殺から身を守ったのでしょうか。

始皇帝は、水銀にも執着したといいます。天下統一すると、彼は「永遠の命」というのを求めました。そんな中で、薬と勘違いして飲んだというのが水銀です。この水銀が原因で、始皇帝は水銀中毒で死亡したといいます。不思議ですね。死後も始皇帝陵に水銀の川があったというので、とても大切にしていたそうです。