司馬遷。歴史文学の中で知らない人はおそらくいないと思います。あの有名な「史記」を書き上げた人でもあります。当時、事実を文字で書き残すという作業は大変なものでした。
そんな司馬遷の人生を見ていきましょう。
1.人生
司馬遷は、紀元前145~135年頃に誕生したといわれています。司馬一族は代々、歴史研究に携わってきた名門家です。司馬遷も幼い頃から高水準の教育を受けてきたエリートです。
司馬遷の師は孔安国であり、古文の始まりに関係する学者です。古代中国の「失われた歴史」についても師から学んでいます。儒教を国教にしようとした董仲舒(とうちゅうじょ)も司馬遷の師の一人です。
20歳頃から、中国各地を巡り歩くという旅に出ます。各地の歴史的建造物や遺跡、そして学者との学術的な交流も行われました。23歳になると上級役人に選ばれます。父親が最高クラスの役人ではなかったため、司馬遷は試験を受けて実力でその地位を得ました。
父の死後、父の役職である太子令を引き継いだ司馬遷は武帝に尽くします。この太子令とは儀式の仕方や公文書の執筆、歴史書研究の仕事をする役職です。司馬遷は武帝の元で「太初歴」を作り上げることに貢献します。太初歴とは太陰暦であり、190年間ほど採用されました。
武帝時代では異民族との争いも活発でした。北方民族の匈奴との戦いでは、李陵という将軍が善戦しますが、最終的には敗北します。当時の美意識では敗北したら自殺することが望ましいとされていましたが、降伏を選んだことで武帝は激怒しました。
これに対し、司馬遷のみが李陵をかばいます。司馬遷の評価によると李陵は献身的であり、同じく善戦した名将は他にいないといいます。しかしこの言葉が、騎馬戦での実績が乏しく、李陵の援護を十分に出来なかった武帝のコンプレックスに触れてしまうことになるのです。
怒った武帝は司馬遷を投獄し、死刑か宮刑かを選ばせたのです。宮刑とは、性器の一部を切除するという当時の最も屈辱的な刑罰でした。それでも司馬遷は死よりも、名誉を失うその刑を選び、生きて歴史書の執筆を目指すことになるのです。
公務を続けた司馬遷は、「史記」を完成させます。いつまで生きたかは不明のままです。
史記は、黄帝を含む五帝の時代から、夏王朝、殷王朝、周王朝、秦の始皇帝など「中国の歴史の始まりの部分」を書き記したものです。テーマの一つは、「天道是か非か」です。これは正しいことをした献身的な人でも多くは不幸になっているというものです。史記では全編を通じて天道について疑問を投げかけています。基本的には事実しか書いておらず、宗教や王朝にも忖度していない貴重な書物なのです。