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セオドア・ルーズベルト テディベアなる実力を発揮したアメリカの誇り!その素顔に迫る!


セオドア・ルーズベルト。数々の戦争の仲介役となり、各国を結びつけたアメリカの大統領です。国内政策も力を入れ、今でもアメリカ国民の間で人気となっています。その愛嬌からTheodoreのTを取った「テディベア」と呼ばれています。

そんなセオドア・ルーズベルトの人生を見ていきましょう。

1.生涯

セオドア・ルーズベルトは、1858~1919年に生きたアメリカの大統領です。共和党員として地方議員やニューヨーク市公安委員長を務めていました。

セオドア・ルーズベルトの名が知られるようになったのは、1897年にマッキンリー大統領のもとで海軍次官に抜擢されてからです。セオドア・ルーズベルトは、熱心に海外膨張主義を打ち出し、カリブ海や中国市場に参画するためにハワイやフィリピンの領有を模索していました。

セオドア・ルーズベルトの進めた膨張政策で、1898年のアメリカ・スペイン戦争を実現させました。義勇軍を率いてキューバに侵攻し、名声を挙げました。そして、1900年にマッキンリー大統領の副大統領に就任します。

マッキンリー大統領が暗殺されてからは、副大統領から繰り上がり大統領に就任します。セオドア・ルーズベルトはまず、内政でトラストや資本集中と金権政治家を攻撃し、富の公平な分配を目指しました。反トラスト法運用、労働者の保護を謳った革新主義を取っていきました。

外政においては、実力外交を展開していきます。セオドア・ルーズベルト棍棒政策といわれる積極的なカリブ海政策を進めます。1902年にキューバに強要して憲法の中にプラット条項を取り入れさせたり、パナマ運河の建設権を獲得するなど、次々と帝国主義政策を取りました。セオドア・ルーズベルト日露戦争やモロッコ事件では仲介役を務め、1906年ノーベル平和賞を受賞しました。

セオドア・ルーズベルトは、カリブ海に介入する際にモンロー主義を拡大解釈し、正当化しました。1904年に「教書」として示したもので、アメリカの外交は、ヨーロッパ諸国の中南米への介入を許さず、アメリカの国益を守るためであれば、アメリカ自身が干渉する、という内容です。これは、「ローズベルトの系論」と呼ばれ、アメリカのカリブ海政策の干渉を正当化するものでした。

しかしこれは、カリブ海アメリカの経済活動に不可欠な地域と定め、勢力圏として支配しようという棍棒外交特有の身勝手な解釈でした。この系論は後の大統領となるケネディレーガンにも引き継がれていったそうです。

2.日本とのつながり

日露戦争において、ロシアの満州進出を止めるために、日本に対して様々な財政支援を行いましたが、日露間の均等な勢力を望み、日露講和条約の成立に力を貸します。

アメリ特命全権大使であった高平小五郎から、大統領を引退したセオドア・ルーズベルト日本に招待しようと提案がなされたそうですが、実現しませんでした。

3.まとめ


テディベアとは思えぬほど、強権的な外交を進めていましたね。ただ、積極的に拡大しつつも、各国の和平に力を尽くしたことは素晴らしいです。セオドア・ルーズベルトは、内政においても労働者が困らないように政策を実行してきたのは、実力者だと感じました。

そんな人気のあるセオドア・ルーズベルトですが、最近、セオドア・ルーズベルト銅像が撤去されたというニュースも入ってきました。どんな理由からというと、この銅像アメリカ先住民とアフリカ系の人を従えたとして「植民地主義」の象徴だというのです。撤去については、ニューヨーク市長のデブラシオ市長が評価し、セオドア・ルーズベルト大統領の親族も理解を示しているそうです。