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マリー・アントワネット 歴史事実と裏腹な性格を明かす!


マリー・アントワネットは有名ですよね。フランス革命の時、ルイ16世と一緒にギロチンにかけられた人物です。また、国の財政が苦しい中、ひとり豪遊した裕福な女王様でもあります。

何でも自由に思い通りに過ごし、わがままな性格に思われる彼女。ただし、それだけではないです。表向きには見せなかった温かい性格もあったようです。そんな波乱万丈な人生を送った女王の素顔について覗いていきます。

1.生涯

マリー・アントワネットは、1755年に神聖ローマ皇帝フランシス1世とハプスブルク家女帝マリア・テレジア末っ子として、オーストリアのウィーンで生まれました。マリー・アントワネットマリア・テレジアにとって11人目の女の子でした。

マリー・アントワネットは、政治的な理由により、若くして結婚させられるのです。その結婚相手が、ルイ16世でした。1754年-1763年まで続いた七年戦争の末、長年の宿敵であったオーストリアとフランスとの間に交わされた新たな同盟を確固たるものとするため、オーストリア君主は末娘を、フランスのルイ16世のもとへ差し出すことにしたのです。

1770年、ニ人は結婚することになりました。マリー・アントワネットは、まだ14歳でした。ルイ16世15歳の若さでした。この時を堺に、マリア・アントーニアという名前から、マリー・アントワネットと呼ばれるようになりました。

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ニ人の関係は実に奇妙なものでした。会って数十秒後に、父であるルイ15世の案内により寝室へと案内されます。そしてキスをして、ルイ16世とニ人で王室の跡取りづくりを任せたのです。しかし、ニ人の間に7年もの間、子どもは出来ませんでした。

結婚して7年後の1778年、ついに最初の子のマリー・テレーズが生まれ、ルイ・ジョセフ、ルイ・シャルル、ソフィと続きました。しかし、不幸にもソフィとジョセフは幼くして亡くなります。これがきっかけなのか、後にマリー・アントワネットの元に7人の養子を迎え入れているのです。

マリー・アントワネットルイ16世は、政治的なつながりで結婚したにも関わらず、夫婦仲は比較的良かったといわれています。ルイ16世は思いやりのある性格の持ち主だったそうです。こんな夫婦仲のエピソードがあります。例えば、狩りの愛好家であったルイ16世に合わせようとマリー・アントワネット馬術を習ったそうです。この時は、ルイ16世に強く反対されましたが諦めず、馬の代わりに、ロバに乗ることを許されたそうです。マリー・アントワネットロバに乗ってルイ16世と二人で出かけることもあれば、ロバを連れて森の中を一人トレッキングすることもありました。

マリー・アントワネットといえば、フランス国民から嫌われていたことが印象深いですが、フランスに来たばかりの頃は、美しかったので大衆の心をわしづかみにしていたそうです。パリを訪れた際は、マリー・アントワネットひと目でも見ようと約5万人もの観衆が駆けつけたそうです。この時の大混乱で30人もの人が亡くなったといわれています。

その人気と美貌からファッションデザインを重視したことで、マリー・アントワネットは一躍、フランスのファッションリーダーとなりました。

その一方で、ひどい浪費癖もありました。農民が飢えている中、マリー・アントワネットルイ14世が築いたヴェルサイユ宮殿の敷地内に、当時の村落を再現した「プチ・アモー」を建設したのです。マリー・アントワネット自身、農民のような服装になり、田舎風景の中でママゴトのようなことを楽しんだのです。

しかしこれが常軌を逸しているとして国民から強い反感をかいました。これを機に、革命家などの怒りを呼ぶことになったのです。些細なことからフランス革命という大惨事を引き起こす種をまいてしまいました。

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2.知られざる性格

マリー・アントワネットは、向こう見ずの浪費家という印象が強いですが、それとは反対の言動も数多くあります。

彼女は未婚の母親のために家を建てたり、貧しい家庭を訪れ、食料を与えたりしていました。1787年の飢饉の時は、穀物を必要としている人々に食べ物を分け与えるため、宮廷で自ら看破を募ったりしました。穀物が実り、民衆が無事に飢饉から脱することが出来た際には、母のマリア・テレジアに手紙まで書いていたそうです。

さらに、マリー・アントワネットが馬車で移動中にワイン職人をケガさせてしまった時には、馬車から降り、すぐに駆けつけて医療費を払い、彼が復職するまで家族のケアまでしたという逸話があります。

我が道を行くマリー・アントワネットですが、行く先々に会う人々に対して献身的な行いをしていたことが分かります。本来の優しい性格が、こうして表れたのかもしれませんね。

なぜ、浪費家で我がままだと広がったのかは定かでありません。ただ、マリー・アントワネットの部下は従順に従う者を揃えていたため、遠ざけられた者が、こうした悪い噂を流したものとみられているようです。

3.訴えかけるような名言


飢えて苦しむ農民に対し、マリー・アントワネットパンがなければお菓子を食べれば良いじゃないという名言は有名です。

しかし残念ながら、本人が言ったという証拠は残っていません。この言葉は、実はマリー・アントワネットが生まれる何十年も前から存在していた言葉だそうです。この言葉は1660年に思想家ジャン・ジャック・ルソーが描写した文章で、民衆の実情を知らない王族たちを表現するために使われた言葉です。

また、ギロチンに向かう時に死刑執行人であるムッシュウの足を踏んだ時に放った言葉。
どうかお許しください。ムッシュウ。わざとではございません
言葉では言い表せない一面を見せています。

何もいりません。全て終わりました
これは処刑される日の最後の朝食に発した言葉です。全ての終わりを察した何ともいえない言葉です。

勇気!私はそれを何年も見せてきた。私の苦しみが終わろうとしている瞬間にそれを失うと思う?
この時には、既に死を受け入れる強い覚悟が垣間見えますね。

4.まとめ

マリー・アントワネットが思いもよらぬ性格を持っていたのに驚きました。謙虚な一面もあり、慈善活動家でもあった女王。こうした性格は、もっともっと伝えられると良いのですが。最後に死刑になったのは悔やまれます。

夫のルイ16世も優しい性格だったので幸せだったのではないかと思われます。7人もの養子を迎い入れたのも懐が大きかったからではないでしょうか。

マリー・アントワネットの華麗な性格は、憎まれながらも多くの人々に語り継がれ、今では映画化されるほどです。さらに商品化もされ、「マリー・アントワネット」という紅茶も存在しています。

優しい一面を持つ女王の志は、現在においてもなお受け継がれています。