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チンギス・ハーン 実は源義経であった?その疑わしき根拠とは!?


チンギス・ハーンは、モンゴル帝国を築き上げた立役者です。当時、最強だった中国も呑み込んでしまったのですから、凄まじいものがあります。

当時のモンゴル人というと、怖いイメージがありますが、どうでしょうか。チンギス・ハーンは、日本人武将である源義経であったとの伝説もあるそうです。

そんなチンギス・ハーンの全体像と知られざる秘話もあわせて書いていきます。

1.生い立ち

チンギス・ハーンは1162年、モンゴル部族のボルジギン氏の首長、エスガイを父、ホエルンを母として生まれました。モンゴルの伝承によると、その先祖は、「蒼い狼」を父に、「白い牡鹿」を母に生まれたそうです。漢字で書くと成吉思汗と書きます。

若くして父を亡くし、母に育てられました。タタール、ケレイトなどのモンゴル系の部族を次々に制圧し、1204年にナイマン王国を打破り、モンゴル高原を統一しました。そして西域のウイグルも服属させました。

1226年、西夏へ再出兵しました。1227年、西夏国王が和平を持ち出してきた時、チンギス・ハーン甘粛省の清水県で狩猟中に落馬した傷が悪化して亡くなりました。

なんとその死は秘密とされ、周辺住民はことごとく殺戮されました。棺を守る兵は、途中で出会った者たちを全て殺しながら進みました。チンギス・ハーンの死後の生活を支えるためだそうです。しかし、チンギス・ハーンの墓は今でも発見されていないそうです。

2.一念発起の遠征


西方遠征

1218年、トルキスタンに逃れていたナイマン王を滅ぼしました。西ウイグル王国も制服しました。1220年にはブハラ、サマルカンドを破壊しました。チンギス・ハーンアフガニスタンに南下し、バーミアンを破壊しました。インダス河畔まで行ったものの引き返しました。

西夏遠征

1227年、遠征に行きました。西夏が協力を拒んだためでした。チンギス・ハーンは大軍で都を囲みましたが、陥落前にチンギス・ハーンは亡くなりました。

3.子どもたち

チンギス・ハーンには4人の子どもたちがいました。長男ジョチは、優秀で才能がありましたが、実子ではないと噂されていました。次男のチャガタイ・ハーンは、気性が荒れており人望がありませんでした。三男のオゴタイ・ハーンは、大人しく取り柄のない子どもでした。四男のトゥルイは、末っ子で父から最も可愛がられていました。人々は、トゥルイが選出されると思われていましたが、オゴタイ・ハーンが選出されることになりました。そして、その孫がモンゴル帝国を完成させたフビライ・ハーンです。

4.源義経チンギス・ハーン伝説

モンゴル帝国を築いたチンギス・ハーンは、実は源義経ではないか、という伝説があります。これは、平泉で死んだとされる源義経が、死なずに生き延び、蝦夷へ逃げて海を渡り、チンギス・ハーンとしてモンゴル帝国を築いたという内容です。

その根拠は様々であり、源義経チンギス・ハーンの紋章が同じである、チンギス・ハーンはニロン族で日本が訛ったもの、チンギス・ハーン源義経が使ったような戦術を用いている、などです。二人とも勇ましい武将として似ている点も多くあります。

この説が唱えられたのは幕末のことです。外国人医師のシーボルトにより表され、著書「日本」の中で、様々な角度から検証されています。

5.まとめ

モンゴル高原を駆け巡ったチンギス・ハーンモンゴル帝国といえば、フビライ・ハーンというイメージが強いです。しかし、チンギス・ハーンの時代から既に世界を駆け巡っていて、その基礎を築き上げたことは偉大です。

チンギス・ハーン源義経だったという逸話も面白いですね。二人の共通点が似ているのでうなずけます。源義経鎌倉時代のスタートを切り開いた人物ですから、元の時代を切り開いたチンギス・ハーンと、そっくりですね。こういう話が出てくるのもおかしくありません。事実かもしれないですよね。

驚いたのが、チンギス・ハーンの死です。まさかチンギス・ハーンの遺体が運ばれている最中で出会った人々を殺していたことは想像もしたくありません。そして、墓の場所も見つかっていないという謎です。一体どうなっているのでしょうか。