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ガリレオ・ガリレイ 天才が犯した思わぬ失敗とは如何に!?


ガリレオ・ガリレイは、17世紀に活躍した偉大な科学者であり、数学者でもありました。ガリレオといえば、当時有力であった天動説を否定して、地球は宇宙の中心であるという「地動説」を唱えたことで有名です。これは当時、とんでもないこととされ、異端の罪として宗教裁判にかけられたことでも知られています。

現在の物理学に大きく貢献したガリレオ。そんなガリレオの苦悩に包まれながらも自身の人生を全うした歴史を紐解いていきます。

1.清らかな青年時代


1585年、21歳のガリレオは学位をとらないまま大学を退学しました。4年間も勉強したのに退学するのは今では不思議に思えますが、16世紀イタリアでは当たり前のことでした。資格自体は大事ではなく、学問領域でのその人の評判が大切とされてきたのです。

ガリレオは、フィレンツェシエナの間にある家族が住んでいる土地に戻り、すぐに生計を立てる準備を始めました。誰の援助も受けられず、頼りになるものは、大学で身につけた数学の力でした。

ガリレオは好青年で、人をひきつける魅力の持ち主でした。一生を通じて、その打ち解けた親しみやすさは、彼自身にとってたいへんな強みになりました。子どもたちは勿論のこと、興味があって授業料を払おうという人なら誰にでも、喜んで科学を教えるつもりのあることが広く知れわたるようになりました。フィレンツェでは、ルネサンスの精神が大きな盛り上がりを見せていて、ガリレオが教える相手には、大人も大勢いました。

ガリレオは、こうしている間にも数学と物理学の研究を続け、フィレンツェの数学者や哲学者たちの間でだんだんと評価を高めていきました。ピサ大学では、それまでの学説に対する型にはまらない考え方と、振り子の等時性の発見によって、有名になっていきました。

2.「小天秤」という本

個人教授の仕事をしていた頃、彼は本格的な物理学の教科書を初めて書きました。「小天秤」という本で、トスカナの両親の家や、ピサ大学の宿舎の部屋で行った実験の数々が書き記されていました。とりわけ当時の科学者たちの興味をひいたのは、ギリシャの科学者アルキメデスの考えをどのように証明するかということについて、ガリレオが提案している一節でした。

アルキメデスは、ギリシャの科学者の中で最も偉大な人物です。アルキメデスの発見の中でも一番有名なものは、物体を水に沈めたとき、水かさの増えた分の水の体積は物体の体積に等しい、というものです。

ガリレオは、この話を長々と載せ、その後、アルキメデスの業績に対して自分自身の改良点を付け加えました。そうした本のなかで、ガリレオはいつも自分の発見をストーリー仕立てで表現しました。彼が語り手となり、筋に組み込んだ自分の学説を分からせる、という趣向もありました。さらにはコメディを使うことも多く、風刺と呼ばれる、当時としては新しいコメディの形をとって、自分の考えを分からせようとしたのです。

ガリレオは、コメディを取り入れることで、教養ある好奇心旺盛な読者たちに大人気をもたらしました。その一方、彼をよく思わない人たちの反感をあおることにもなりました。特に、批評家たちの批判は痛烈で、ガリレオのことをやりすぎだとか、生意気で異端者のようだ、などというのでした。しかし、彼のユーモラスな人柄と陽気な振る舞いは、多くの友達をもたらしてくれるものであったのです

このようなガリレオのやり方は、とても効果があり、「小天秤」で述べたことはかなりの革新的な内容であったにも関わらず、科学者のほとんどに受け入れられたのです。

3.ピサの斜塔での実験

アリストテレスの物理学上の基本的な学説のひとつに、重さの違うふたつの物体が重力の影響で落下する場合、重い物体のほうが先に着地するというものがあります。当時の人たちの間では、絶対に否定できない事実として受け入れられていました

そんなアリストテレスの誤りを証明してみせるため、ガリレオは助手2人を連れて重さの異なるふたつの砲丸を持って、ピサの斜塔のてっぺんへと登っていきました。

塔に登ることは大変な苦労でした。頂上に着くには石造りの壁の内側に巡るらせん階段を何百段と登らなくてはなりませんでした。苛立ちに駆られたガリレオは、塔の上にさらに高くそびえる鐘楼へと登っていきました。

彼は、ふたつの砲丸を抱えて鐘楼の縁に立ちました。地上55メートルの高さからピサの町を見下ろします。彼は手を伸ばし、様子を確かめました。ふたりの助手が縁にしゃがみ込みました。各々が砲丸を抱えています。ガリレオが合図をすると、助手は同時に手を離し、砲丸を下の草地に落下させました。

結果は明らかでした。ふたりの砲丸はほとんど同時に地面に着いたのです。これでアリストテレスが完全に間違っていたことが疑いの余地なく証明されたのです。

4.望遠鏡

1609年7月、45歳のガリレオベネチアにいる友人のパオロ・サルピを訪ねました。その訪問中にサルピは、外国人の知り合いから聞いた話をしてくれました。オランダのめがね職人、ハンス・リッペルハイが、望遠鏡と名付けた道具を発明したというのです。パドバに帰ったガリレオは、さっそく自分で望遠鏡を設計し、組み立てました。

当時はまだ、望遠鏡を物珍しいだけのものと思っている人がほとんどで、その性能を気にする人はいませんでした。しかしガリレオは、このおもちゃのような道具をなんとか改良しようと必死になりました。そして遂に完成させます。彼は、レンズを丁寧に磨いて仕上げ先端のレンズの縁から入る光が像をゆがめることのないようにしました。この工夫をすることで、望遠鏡の倍率を大幅に改善することが出来ました

ベネチア総督が、ある外国の設計家から、非常に高い値段で望遠鏡を売りましょうと持ちかけられていました。サルピは、その望遠鏡で見える像がひどく質の低いもので倍率も3倍程度と知って、購入に反対しました。そして、友人のガリレオが望遠鏡を改良して、独自のものを作っているのを知ったサルピは、ガリレオの望遠鏡を買うようにと、ガリレオとふたりで、この金持ちのベネチア総督を説得したのでした。

しかし、不幸にして何もかも期待していた通りには運びませんでした。ベネチア総督が持ち出した契約は、口約束とはまるで違うものだったのです。約束の昇給はなし。契約書には様々な好ましくない条件が書き連ねてあり、ガリレオは契約する気が全く起こりませんでした。

5.惑星の観察

彼が望遠鏡を使ってまず観察したのは、月でした。そして今回も、アリストテレスの学説と真っ向から対立するようになりました。アリストテレスは、月が完全な球体で傷は何もないといいました。ところが、望遠鏡でざっと見ただけでもクレーターやクレバスが月面を覆っているのが分かります。月面にさらに不思議な物体があることが分かりました。クレーターとクレバスの間にそびえる山があったのです

ガリレオは望遠鏡を惑星に向けました。そして1610年、彼の生涯のうちでも大きな発見をしたのです。毎晩のように、木星の明るい表面を背にして見える黒い点々を観測していました。その点々は一定のペースで移動しています。ある夜、望遠鏡を木星に向けて見たところ、黒い点々のいくつかが消えていました。最初ガリレオは、望遠鏡の筒の内部で光の屈折で点々が見えたのだろうと思いました。しかし、考えられる結論はひとつしかありませんでした。木星には、大きな惑星の周りを公転している衛星があったのです。

6.地動説

1610年、ガリレオ星界の報告」という本を出版して、自身の天文学上の発見を報告しました。そして、1611年5月、ガリレオはローマへ行き望遠鏡を人々に見せながら、自分が発見したことの講演をしました。自分の最新著書に興味を持ってもらう意味もありましたが、反アリストテレス的な意見の支持者を増やすという意味もあったのです。

優れた講演者であるガリレオは、素晴らしい望遠鏡の力もあって聴衆を虜にすることが出来ました。この場でも彼の外向的な性格と、話術のうまさが幸いし、彼とその望遠鏡はイタリア中の語りぐさとなりました

人々は、望遠鏡のレンズを通して月がどんなに巨大なものかを自分の目で見ることが出来ました。こうして天文学は、知識人や大学教授が論じるだけの退屈なものではなくなりました。

しかし、それでもアリストテレス学説の支持には根強いものがありました。ガリレオフィレンツェに戻ってくると、彼が大衆に支持されたことを妬み大公に重んじられていることをうらやむ哲学者や科学者の一団が、彼に嫌がらせをして陥れようとしました。ことあるごとにガリレオの説に強く反論し、研究にケチをつけました。特に、ドイツのクリストファー・シャイナーの著書が発行されると反発は頂点に達しました。

シャイナーは、望遠鏡を使って太陽の表面にある黒い斑点を観測してきたのでした。ところがシャイナーは、アリストテレスを信奉していたので太陽には傷ひとつないものだと信じていました。黒い斑点は太陽の表面に近いところをまわっている小惑星だと発表したのです。ガリレオはこれを耳にすると、自分で観測して反対意見を出し、シャイナーの考えを根底からくつがえす論文を書きました

7.罠

激しい論争に火がつきました。シャイナーはあくまでも正しいと思っており、自分の説を支えるものとして宗教と哲学を引き合いに出しました。一方、ガリレオは自分の立場を明確にして断固としてシャイナーの説に反対の立場を貫きました。こうして、ガリレオアリストテレスと教会に背いて異端であると見えるような立場に立ってしまったのです

1614年には、さらに打撃となる出来事が起こりました。トマス・カッシーニという司祭が自分の教会の祭壇から科学に反対するような説教をし始めたのです。カッシーニガリレオを名指しして真実の信仰の敵であるとしました。ただガリレオは神を疑っているのではなく、真実を見ようとしない人間の態度に疑問を持っているのでした

ガリレオはシャイナーの罠にはまってしまい、アリストテレス学徒たちに対してわきまえを無くしてしまいました。以前は公の場でコペルニクスの側につくのを避けるようにしてきました。しかし、論争が頂点に達すると、今まで避けたことをしてしまったのです。

コペルニクスの記事はこちら
deutschlandworld.hatenablog.com


8.まとめ

この地動説を巡る論争は、ローマ権力者の知るところとなりました。ニコラウス・コペルニクスを支持したことで、ガリレオはローマに呼び出されて糾弾されることになったのです。

ガリレオは教会に反対の立場にあると考えられ、教会を信じていくための仕組みを脅かす者とみなされました。科学者でありながら敬虔なカトリック教徒であることはできないと申しわたされました。

しかしその後、空にはっきりと見えるすい星があらわれると再び激しい論争が巻き起こりました。ガリレオアリストテレスは間違っていたことを示すと、今度は権力者たちは証拠を一切無視し、彼を集中的に非難しました。

ガリレオは再び教皇に呼び戻され、宗教裁判にかけられました。69歳でした。ローマでは犯罪者扱いを受けました。裁判の結果、終身刑となり、とらわれて軟禁されました。1日中見張りをつけられ、家から出ることも許されませんでした。

1633年、ガリレオは重い病気にかかりました。裁判の前にかかっていた伝染病がぶり返したのです。しかし、ガリレオはくじけませんでした。科学以外にも興味を向け、絵を描いたりリュートを弾いたりし始めました。

しばらくすると情熱もよみがえり、再び著書を始めました。晩年の数年も力学上の重要な発見をし続けました。新たな著書で最高傑作である「新科学対話」を書き上げました。前半は物質の特性について、後半は運動というテーマについて書かれた本でした。この本は革新的なもので全く新しいテーマでした。

1642年1月、冬の寒さが厳しいとき、ガリレオ・ガリレイは眠ったまま亡くなりました。

芯を貫いた科学者。たとえ世間の批判にさらされても臆することなく、新しい科学の扉を開き続けてくれたガリレオは本当に素晴らしいなとしみじみ感じました。


参考文献

伝記 世界を変えた人々