ウィンストン・チャーチル。第二次世界大戦の時のイギリスの首相です。連合国軍を勝利に導いた立役者であり、その後の会談での中心人物でありました。
チャーチルの人気はものすごくあり、彼が亡くなった時には人々が殺到したそうです。
そんな影響力を誇るチャーチルの人生を見ていきます。
1.生涯
ウィンストン・チャーチルは、第一次世界大戦から第二次世界大戦、さらには戦後の冷戦時代にかけて最も有名になった政治家です。チャーチルは、学生時代にハロー校から陸軍士官学校のエリートコースを歩みます。
インドや南アフリカで軍人生活を送っていき、1899年には南アフリカ戦争に新聞記者として行っています。1900年に保守党から立候補して下院議員となり、政治家として活動を始めました。活動していくうちに自由貿易主義を取るようになり、自由党に移転しました。
商務大臣、内相を努めた後、海軍大臣となり第一次世界大戦に突入します。チャーチルはガリポリの戦いで上陸作戦を進めますが、ケマル=パシャ率いるトルコ軍に敗れてしまい、辞職しました。
1917年に自由党の連立政権に迎えられ、陸相などを努めました。しかし、ロシア革命が起こると共産主義の勢力拡大に危機感を持ち、再び保守党へと戻ります。
1930年代になるとファシズムが台頭します。第二次世界大戦が始まると、ドイツ軍がノルウェーに侵攻、イギリス軍がそれを阻止出来なかったため、ネヴィル・チェンバレン内閣が退陣しました。そしてチャーチルが1940年に首相となりました。
ドイツ軍が侵攻してくる中、チャーチルはダンケルクからの撤退を表明しました。チャーチル内閣は戦時内閣として、1945年まで指導することになります。
1941年にアメリカとソ連が大西洋会談において大西洋憲章を発表し、目的を明確にしました。連合国が成立し、チャーチルはその指導者として、戦後世界の枠組み作りに貢献していきます。
チャーチルが参加した戦後処理構想はアメリカ大統領とのアルカディア会談で、連合国共同宣言に合意しました。連合国の結成の第一歩となりました。国際連合の第一歩ともなります。
テヘラン会談ではソ連の進出を警戒したチャーチルはスターリンが要求するポーランド問題で対立しますが、ファシズムに対する戦いでは合意しました。
ノルマンディー上陸作戦を実行し、ドイツ空爆をします。1945年のヤルタ会談でドイツや日本の敗退を前提とする戦後処理構想が練られて、国際連合の設立を約束しました。
1945年の総選挙ではアトリーの労働党が勝利しました。戦争に苦しんだ国民にチャーチルが負けた結果となりました。こうして退陣していきました。
その後、再び保守党を率いて1951年の総選挙では勝利。チャーチルは文筆家としても知られています。第二次世界大戦回顧録はよく読まれ、ノーベル文学賞を受賞しました。1965年に死去しました。