オモシロ世界史百科事典

世界史が好きです。

ポール・セザンヌ 未知なる画家!?その気になる生涯を詳しく解説!!


フランスの代表的画家
ポール・セザンヌ

ポール・セザンヌは、1839年1906年に生きたフランスの印象派の画家です。セザンヌといえば、「りんご」などの静物を描いているイメージがありますね。

今では、日本の美術館でも当たり前に知られている人物ですが、セザンヌが生きていた当時は、どうだったのでしょうか。

そんなセザンヌの生涯を覗いてみたいと思います。

1.青年期と父との関係

セザンヌは、生涯を通じて、小さい頃から激しく衝動的な性格でした。絵を描くためだけに生きました。それが彼の生涯で唯一の情熱で、家族や友人というのは二の次でした。

画家の眼を通して周囲を眺め、事物に及ぼす光と影の効果を極め、形と色の関係を探る、セザンヌの心は、常にこれらの努力に向けられていました。独学の画家であるセザンヌは、自身の労作の結果に満足することは決してありませんでした。時には、自身の能力に対する失望と怒りで、キャンバスを破いてしまうことも度々あったそうです。

ただ、セザンヌ決断力や自信に乏しく、威圧的な父に対抗できない弱さがありました。父、ルイ・オーギュスト・セザンヌは、帽子の輸出販売業というささやかな地位から叩き上げで、銀行家となり名を成した人物で、一人息子も当然、銀行を継ぐものと考えていました。

セザンヌは父の意を受けて卒業試験を終えると、エクスにある大学の法律学部に籍を置きます。父は法律学の課程を終えたら、息子を自分の銀行のポストに就かせようと考えていたのです。

1859年、デッサン専門学院の夜間人物画コースに通い始めます。

セザンヌは、次第に法律の勉強を怠け、美術に専心するようになります。しかし、父親は相変わらず彼のパリ行きを頑として許そうとはしませんでした。

父が買い取った新しい家での生活は、セザンヌにとって耐え難いものになってきました。次第に引きこもりがちになり、見かねた父も態度を改め、息子がエクスを離れることを許しました。

しかし、一旦パリに行くも、大きな望みは果たされずに終えました。彼が訪れたルーブルでは、クロード・モネオーギュスト・ルノワールという有名な画家と出会いましたが、セザンヌは、自分が部外者だという感じが拭えず悶々とした日々を過ごしていました。

2.銀行家から画家へ

エクスに戻り、渋々ながら再び父の銀行で働く傍らで、ジャ・ド・ブーファンに自身のアトリエを構えていました。

銀行の当時の帳簿には、こんな落書きを残しています。

「銀行員セザンヌはおののきながら眼を見張る。帳簿の後ろに一人の画家が現れるのだ」

これを見てしまった父は、セザンヌを銀行の跡継ぎにするのは無理だと悟って、2度目となるパリ行きを許しました。しかし、パリに戻った彼は再び「美術学院」の入試に失敗しました。セザンヌはそれ以上、願書を提出することはなくなりました。「美術学院」の硬直した制度と狭量な姿勢にうんざりしたのです。

代わりにアカデミー・スイスで勉強を続け、定期的に出席するようになりました。

セザンヌは、決して一か所に長く留まることがありませんでした。パリでも頻繁にアパートを替え、都会の喧騒に半年以上も耐えていられることは稀でした。1863年から1870年までの間、毎年のようにエクスに戻り、滞在していました。

3.セザンヌとオルタンス

1870年の夏、普仏戦争が勃発すると、セザンヌは兵役を逃れてエクスからマルセイユ近郊のレスタックの漁村に移ります。その当時、彼は11歳年下の女性と暮らしていました。それがパリでモデルをしていた、オルタンス・フィケという人物です。

しかし、この関係は彼が求めていたような孤独からの解放を決してもたらしませんでしたセザンヌは、女性の前では引っ込み思案であり、性交渉を試みるとパニックに陥りました。

セザンヌは月々の仕送りが止められることを恐れ、この関係を8年間、隠し続けていました。オルタンスと結婚したのを正式に公表したのは、1886年になってからでした。

オルタンスは、セザンヌの絵画に対する情熱を分け合うタイプではなく、プロヴァンスのもの淋しい片田舎よりも、明るいパリの街の灯の方を好みました。一方で大変な忍耐力も備えていたらしく、彼のために際限なくモデルを務めたようです。

戦中の一時期をオルタンスと一緒にレスタックで過ごし、他の時期は彼女を伴わずにエクスの実家で一人きりで過ごしました。

戦争が終わると、セザンヌとオルタンスはパリに戻り、1872年には息子のポールが生まれました。その頃、セザンヌは自分自身にも世間にも不満や苛立ちを感じていました。家族を養わねばならず、かつてないほどの絆に縛られていたからです。

4.静物


セザンヌは空間に物体を描く、これまでにない全く新しい方法を発見しました。静物の二次元性に基づいてそれらを創造し直し、純粋に芸術的手段を用いてそれらに奥行きを与えたのです。

物体を描く時に線遠近法の使用を避けたので、構図上必要な大きさに応じて物体を描くことが出来ました。

例を挙げると、「果物籠のある静物」では、テーブル右端の梨が他に比べて不釣り合いに大きいです。しかし、その大きさは作品内部のバランスをとるには重要であり、絵の左角にあるフォルムの多様性に対応して、それを相殺する役割を果たしているのです。

セザンヌは、あらゆる静物をアトリエに揃えました。果物を別として、瓶や壺、皿などのモチーフの多くは、彼の構図に繰り返し登場してきます。容器の形はシンプルで当たり前のもので、果物も基本的な丸い形の梨、桃、そして多くのりんごです。微妙な色の階調を用いて量感を出すには、こういう果物が一番使いやすかったそうです。

彼は入念に静物を配置しましたが、その一方で、人為的操作や洗練されたマチエール感といった印象を避けることに非常な努力を払いました。いわゆるよくできた錯覚という印象を嫌ったのです。そのため、静物画には物体を傾斜した位置に支えるための本などの補助手段が度々登場することがあります。

特に、インパクトがある作品は「リンゴとオレンジのある静物」です。セザンヌは、りんご1つでパリを驚かしてみせると自信に満ちあふれていました。彼の描いたりんごは、パリのみならず世界中の人々を驚かすことになったのです。最も存在感のあるりんごでした。

5.まとめ

晩年のセザンヌは、画家としてスタートして間もない頃に描いていた、風景の中に置かれた半抽象的人物像というテーマで大量の構図を試みます。

水浴風景をモチーフに、数多くのデッサン「牧歌」「河岸の裸婦」「水浴」などの水彩画を描きました。その数、なんと140点にものぼります。

セザンヌの健康状態は、歳を重ねるごとに悪化していきました。糖尿病の他、鬱病パラノイア症状にまで陥りました。

10月15日大嵐の翌朝、庭に出て「庭師ヴァリエの肖像」を描きます。しかし、症状が急速に悪化し、10月22日早朝、肺炎のため亡くなりました。

セザンヌは、数々の名言も残しています。「自然に線は存在しない」「偽の絵描きは、この木、この犬を見ない」「自然に基づいて絵画を描くことは、対称を写生することではない」など。

穏やかな絵画からは想像もつかなかったセザンヌの生涯を垣間見れて良かったです。葛藤と隣り合わせで生きてきたんだと感じました。


参考文献

ポールセザンヌ TASCHEN