オモシロ世界史百科事典

世界史が好きです。

ウルバヌス2世 世に残る名演説を披露し立ち向かった男!十字軍も結成!


ウルバヌス2世。かの有名な十字軍を創設した教皇であり、何としてでもキリスト教としての国家を守り抜きたいという闘志が顕になった人物です。会議では、今でも残る名演説を披露し、皆が一致団結したと伝えられています。

計7回もの十字軍を立ち上げることになった発起人であるウルバヌス2世の人生を覗いてみましょう。

1.生い立ち

1042年、北フランスの地方貴族の家に生まれました。当時の名前は、ラゲリウスのオドといいました。オドは聖職者になるために、ブルゴーニュ地方にあったクリュニー修道院に入り、院長を務めました。そして、グレゴリウス7世の招きでローマに赴き枢機卿に昇進しました。

そんなグレゴリウス7世のもとで行われた教会の自己改革では教皇の右腕として活躍したのです。聖職者の任免権を持つ神聖ローマ皇帝であったハインリヒ4世を破門するなど次第に実力を付けていきました。

グレゴリウス7世が亡くなると、1088年にウルバヌス2世として正式に教皇へと選出されました。教会改革の路線を着実に踏襲し、教皇権の強化に努めあげていきました。

当時の西欧社会は、農業生産力の向上で人口が増加し、商業も発達したことで盛んに聖地エルサレムへの巡礼が行われました。しかし、エルサレムイスラム教の聖地でもあり、最強だったセルジューク・トルコが支配していたので、ビザンツ帝国はウルバヌス2世に救援を求めました。

これを受けてウルバヌス2世は1095年にクレルモン公会議にて、第一回十字軍の派遣を訴える演説を行いました。

この演説の呼びかけに応えた諸侯たちによる第一回十字軍は、1096年に出発、1099年にセルジューク・トルコからエルサレムを奪還し、エルサレム王国を建設しました。しかし、不運なことにウルバヌス2世は、エルサレム奪還の14日後に亡くなりました。

2.名演説

1095年のクレルモン公会議において説いた名演説を以下に書いていきます。一部省略

「親愛なる兄弟たちよ。神から預かりし私の言葉に耳を傾けよ。今日、私は崇高にして慈悲深き神のお言葉を諸君に伝えるためにこの地にやって来たのだ。東方の地で神に呪われたおぞましき異教徒のトルコ人が、聖地エルサレムを強奪したのを諸君は知っているか。.....今こそ我々は立ち上がらねばならぬ。神のお心は我らと共にある。立ち上がれ、神の勇者たちよ」

この演説のあと、結集して十字軍が出発します。難しいとされたエルサレムの奪還に成功するのです。エルサレム奪還の後に、ウルバヌス2世は亡くなったので、力を使い果たしたのでしょうか。渾身の演説でした。

今でも心に響いてくるような演説ですね。一致団結が必要な時に、このようなことを言われると身が引き締まります。1000年近く経った現在においても名演説として語り継がれているそうです。

3.ビザンツ帝国との関係

11世紀のビザンツ帝国は、衰退してきており、イスラーム国家のセルジューク朝に圧迫されていました。1071年のマンジケルトの戦いに負けていました。ビザンツ帝国南イタリアではノルマン人に占領されます。ビザンツ帝国の領土は縮小していきました。

セルジューク朝西アジアまで伸び、聖地イェルサレムを占領しました。この状況に耐えられなくなったビザンツ帝国のアレクシオス1世は、敵対していたローマ教会に支援を要請するのです。この要請で、ウルバヌス2世が動き出すのです。クレルモン公会議を開き、十字軍を結成します。

この十字軍が、ビザンツ帝国にとっては厄介な存在となり、結局は領土の大半を失ってしまうことになるのです。ウルバヌス2世がしたことはビザンツ帝国苦しめることになったのです。

4.まとめ

ウルバヌス2世は教会のトップとして力を発揮したわけですが、皆をまとめるのは並大抵のことではなさそうです。教皇といえば、利権がらみで悪いことを企んでいるイメージが強かったですが、ウルバヌス2世は皆のことをよく考え抜いた人であることが分かりました。

十字軍は全部で七回結成され、最終的には敗北してしまうのですが、ウルバヌス2世の意志はしっかりと受け継がれていたようです。宗教同士の対立は昔から行われていたのですね。