アルベルト・アインシュタイン。この名前を聞いただけでピンとくる人もいるのではないでしょうか。アインシュタインは世紀の科学者といわれ、あの有名な相対性理論を説いた天才でもあります。
よく見るアインシュタインの写真を見ると、舌を出しておどけている表情ですが、実際もこのような陽気な性格だったのでしょうか。迫ります。
1.生い立ち
アインシュタインは、子供の頃から社会に対して適応できない部分がありました。生まれ故郷のドイツでは、大学予備校のようなギムナジウムも中退しています。17歳で入学したチューリッヒ工科大学においても、教授が説明する授業は無意味だと考えて、授業を欠席し、喫茶店で本を読み、一人で最先端の理論を勉強していました。しかし、授業の出席率が悪かったため、教授間での評判は良くなかったそうです。
1900年、21歳アインシュタインはチューリッヒ工科大学を5人中4番目の成績で卒業します。上位3人は教授になれましたが、ユダヤ系ドイツ人は大学に残ることが出来ませんでした。
大学を卒業し、すぐに職を求めて、ドイツ中の科学者達に手紙や論文を送っています。しかしながら、反応は全くといっていいほどありませんでした。仕方なく家庭教師や成績の良くない高校生に数学を教える臨時教員を務めながら日々を食いつないでいました。
ただ、このように不安定な状況にあっても「物理学者になる」という夢は決してゆらぎませんでした。家庭教師のかたわらに精力的に論文を執筆し続けたのです。
こうして2年が過ぎた1902年、アインシュタインに転機が訪れます。大学同期の口利きにより、スイス特許局での就職が決まりました。発明品の特許出願の内容を精査し、可否を下す仕事でした。アインシュタインにとっては最高ともいえる仕事でした。
安定した仕事に就いたアインシュタインは、世界のあり方に対する知的好奇心をさらに強めていきます。定期的に勉強会も開き、友人と科学について語り合いました。
1905年には、1年もの間に四本の論文を書き上げます。マックス・プランクというドイツの物理学者が発表した、時間と空間は個人が定義付けているのに過ぎない、と証明した「特殊性相対論」を評価したことでアインシュタインの名も徐々に世間に知られていくようになります。
1908年、ベルン大学の講師に就くことになります。翌年にはチューリッヒ大学の理論物理学の助教授になります。念願の物理学者に転身してからの人生は順風満帆でした。
1914年、当時世界トップクラスのベルリン大学の教授に就きます。1915年には「特殊性相対論」を進化させた「一般相対性理論」を発表します。1921年には、光が粒子的な性質も持っていることを示した論文によってノーベル物理学賞を受賞しました。
1955年に亡くなるまでに執筆した論文数は、三百本以上といわれています。
2.日本とのゆかり
1922年11月、アインシュタインは瀬戸内海を経由して神戸港に向かいました。朝日に照らされた無数の島々を見て感動したとあります。また、日本人の船客の態度にも惹き付けられたそうです。
アインシュタインは、40日間日本に滞在していました。当時のヨーロッパ人にとって、日本は神秘のベールに包まれた謎の国でした。
アインシュタインは熱狂的な歓迎ぶりにも驚きました。京都の後に東京に着いたときは、群衆に取り囲まれ凄まじいフラッシュを浴びせられました。「アインシュタイン!」と東京駅は大騒ぎになったそうです。アインシュタインはこんなに歓迎されたことはないと言って感動したそうです。
慶應義塾大学では6時間もの講演を行ったそうです。2000人以上の聴衆が集まりました。アインシュタインの音楽のような声に皆酔いしれていたようです。
アインシュタインは日本に対してこのように予言しています。「来たるべき世界政府の盟主は日本が担うことになるであろう」と。
3.名言
空想は知識より重要である
想像力が全てだ。想像力は人間を魅了あるものにする
困難の中に機会がある
一度も失敗したことがない人は、何も新しいことに挑戦したことがない人である
他人のために尽くす人生こそ、価値ある人生だ
4.まとめ
アインシュタインは陽気な人というより、コツコツタイプの辛抱強い性格の科学者ですね。ただ、学生時代に一人で喫茶店で勉強していた部分は陽気だなと感じます。先生の機嫌を取ることなく我流で突き進んだ印象です。
アインシュタインの脳についても少し聞いたことがありますが神秘的な世界です。普通の人の脳よりも重かったりしたという話も聞きます。
彼が日本好きなのは初めて知りました。東京、京都といろんな所を巡れたことは楽しかったのではないでしょうか。彼の考案した原爆は不幸にも日本に投下されますが、アインシュタイン自身は最後まで反対していたそうです。原爆後も悔やみ続けており、その思いが消えることはなかったようです。