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孫文 元々医師!? 異色の経歴ながら革命を起こした男!


孫文。中国最後の王朝である清朝を終わらせたことで知られています。また、様々な革命を起こし、中国のみならず、台湾誕生のきっかけもつくったエリートです。

孫文は、日本との関係も噂されていますがどうなんでしょうか。最期は無事だったのでしょうか。見ていきます。

1.生涯

孫文は1866年に広東の農民のクリスチャンの華僑一家に生まれます。14歳の時、ハワイに渡り、勉学を極めます。アメリカで民主主義の空気を体験して、19歳で広東に戻ります。その後、香港で医学を学び医師を開業します。しかし、個人を救うよりも、当時危機であった中国を救う国医の方が大切だとして、改革運動に加わりました。

1894年、清朝の改革としてハワイにて興中会を結成します。翌年には武装蜂起しますが失敗し、日本へ逃れます。亡命中は横浜に滞在し、滞在中に犬養毅と出会いました。

1905年、東京で中国同盟会を結成します。そこで三民主義を掲げました。1911年には辛亥革命を指導しました。翌年に成立した中華民国の臨時大総統に就任します。このときは交渉の上、清朝の実力者である袁世凱に譲ります。

まもなく袁世凱の独占が始まったので孫文は中国同盟会を集結させ、国民党を結成します。これにはさすがの袁世凱も妥協し、1913年に初の総選挙が行われ、国民党が第一党に躍り出ます。しかし、クーデターを恐れた袁世凱は議会を解散させ、国民党の指導者を暗殺します。袁世凱の弾圧に敗れた孫文は再び日本に亡命します。中華革命党を結成し、革命を続けます。

中華民国では袁世凱が正式な大総統に就任しますが、第一次世界大戦中の1916年に死亡しました。1919年の二十一箇条の要求がきっかけで起こった五四運動では、孫文は革命政党ではなく、大衆政党へと転換します。中国国民党を結成し総理に就任します。

孫文は、1924年中国国民党大会を広州で開催します。大会宣言で「新三民主義「連ソ、容共、扶助工農」を唱えました。しかし、1925年に肝臓がんのため「革命いまだならず」という遺書を残して孫文は亡くなりました。翌年には孫文の意志を継いだ蒋介石が北伐を開始することになります。

2.日本人と結婚

1898年、孫文は横浜に身を寄せます。商家の娘であった大月薫は家族と共に横浜で暮らしていました。

1899年、火事が起きます。大月一家は避難し、父の知人の家に泊まります。こうして1階に孫文、2階に大月薫が住み始めました。

孫文は当時は名を知られていない若者でした。孫文は2階に住む大月薫に一目惚れだったそうです。そして薫本人に求婚し、1902年に結婚します。孫文38歳薫16歳でした。

その後、孫文アメリカ、ハワイなどから手紙を送っていたといいます。薫が19歳の時に再来日。孫文が日本を離れた時に妊娠が判明します。娘に「文子」と名付けたそうです。

しかし、いつ帰って来るのか分からない父親では育てることが出来ないと判断し、娘を里子に出しました

3.まとめ

孫文が医師だったとは驚きました。医師のままであったら、危ない目に遭わずにすんだろうとは思いました。本国のために医師を捨ててまで立ち上がったのは英雄です。

日本人と結婚していたのは皆さん知っていましたか? 初めて聞きました。普通の娘さんで、しかも20歳以上も歳が離れているとは。勇気がいりましたね。