ライト兄弟。飛行機を発明した兄弟として、伝記などでも登場する常連の人物達です。飛行機が発明されるまでに色んな楽しいことがあったそうですが、必ずしもそれだけではなかったようです。
飛行機の記録が嘘で固められていたのです。周りからの嫉妬もあったのでしょうか。せっかくの記録も嘘であると信用が落ちますよね。嘘を書かれるほど、対立していたのでしょうか。
そんな彼らの人生を見ていきます。
1.生涯
ライト兄弟は、兄はウィルバー、弟はオービルという名前でした。兄のウィルバーは1867年、アメリカのミルビルで誕生しました。そして、4年後の1871年に弟のオービルが誕生しました。彼らには他にも兄弟がおり、兄が2人と妹が1人いました。ライト兄弟は幼い頃から好奇心にあふれ、工作したり、実験をすることが大好きでした。
父からもらった模型飛行機のおもちゃをきっかけに、空を飛ぶことに強い興味を持つようになりました。ライト兄弟が中学生の頃には、当時流行していた新聞をなんと自分たちの手で発行するようになります。実務作業が得意な弟オービルが印刷機を組み立て、文章は兄ウィルバーが書いていたそうです。彼らは夢中になり、大学に行かずに自分達で知識を身につけていきました。
1890年代には自転車が流行し、ライト兄弟も自転車販売を始めます。最初は仕入れのみでしたが、機械いじりも好きだったためか、修理も請け負うようになり、最終的には自作の自転車も売るようになっていきました。
そんな中、転機が訪れたのは1896年でした。ドイツ人の飛行研究家であるリリエンタールが自作のグライダーで飛行実験を行った際に、墜落死したのです。幼い時から空を飛ぶことが夢だったライト兄弟は、リリエンタールの大ファンで注目していたのです。彼の死の知らせを聞いた時から、飛行機の興味を高めることになりました。
ライト兄弟は飛行機の発明に乗り出します。科学の宝庫であるスミソニアン協会に手紙を書き、それまでの飛行機の記録を読みあさります。なぜ先人たちが実験に成功したのかを考察し、研究や実験を繰り返します。そして試行錯誤の上、1903年、遂に人類初となる動力飛行機の有人飛行に成功するのです。
発明後は、改良も重ねられてヨーロッパにも普及していきます。しかし、好調続きではありませんでした。兄ウィルバーが45歳の若さで亡くなります。残された弟オービルは、特許問題で他社と争ったり、スミソニアン協会との間で軋轢が生まれました。協会の会長は、ライト兄弟の偉業を認めず、フライヤー号の展示を断固拒否します。それどころか自身の失敗した飛行機を再現し、それを世界一にでっち上げる始末でした。オービルも晩年は色んな問題に苦しみました。
2.ライト兄弟の成功がウソで固められていた
1903年に人類史上初となる有人飛行の成功という大偉業を成し遂げたライト兄弟。しかし、成功した現場にいたのは、たったの5人でした。そこには、世間に伝えてくれるような新聞記者も専門家もいませんでした。
ライト兄弟は父に連絡して成功したことを伝え、2人の兄が電報を持って新聞社に駆け込みます。しかし、新聞社は懐疑的でまともに取り合ってくれませんでした。
他の新聞社も同様の対応で、ようやく信じてくれた新聞社は、飛行記録を大幅に盛るなど、嘘だらけの文章を書き、これらが影響したのもあって、ライト兄弟の偉業が信じられるようになったのは、ずっと後のことでした。
当時、スミソニアン協会との関係も悪化していたので、ライト兄弟の評判はよくありませんでした。嘘ではなく、本当のことが記載されてたら、ライト兄弟が生きた間に業績が認められていたかもしれません。