マトリョーシカは誰しもご存知のロシアの人形ですね。大きさの違う人形を大きい順にはめていくのがクセにもなってしまうカワイイ人形です。この人形が生まれたのがロシアと思う人は多いようです。しかし、どうやらそうではないようです。
そんな小さくて不可思議なマトリョーシカについて紐解いていきます。
1.日本の「ある観光名所」がルーツ
明治時代(1890)の日本。当時、箱根の塔ノ沢にロシア正教会箱根避暑館があり、数多くのロシア人が出入りしていました。
箱根では、お土産として箱根細工の入れ子人形が売られており、福禄寿の銅の部分が上下に分かれていて、中からは何度も神様が出てくる「七福神」がいました。
その箱根にロシアの富豪マモントフ夫妻が訪れた際に入手したか、また箱根に来たロシア人を経由して、七福神がロシアへと渡ったと伝えられています。
マモントフ夫人は、モスクワ郊外のアブラムツェボにサロンを開き、芸術家の支援をしていました。夫人の発案で、画家のマリューチンとセルギエフ村のろくろ師スビョズドキンにより、箱根の入れ子人形をモデルにマトリョーシカが作られたといわれています。
ロシアの人形職人たちは、試行錯誤を繰り返しました。その過程を経て誕生したのが、独特のスタイルのマトリョーシカです。
庶民的な衣装をまとい、ニワトリなどを手にしたロシアらしい女の子をモデルにしています。こうしてわずか100年で、マトリョーシカはロシアを代表するシンボルと化したのです。
2.ロシアに渡った後
1890年代、モスクワのおもちゃ工房「子どもの教育社」にマモントフが、七福神の人形を日本から持ち込みました。その人形は、内部に入れ子構造で複数の人形が入っていました。木工職人ズヴェズドーチキンは木を削って入れ子でしまえるような同型の人形を制作し、絵描きのマリューチンが少年や少女をモチーフに絵付けをしました。
世界初となるマトリョーシカは、サファラン、前掛け、頭のスカーフにニワトリを抱えた庶民の少女を描き、8ピースで作られました。
当時のロシアでは、女性の名が「マトリョーナ」とつけるのが一般的でした。その愛称により、「マトリョーシカ」という呼び名が誕生しました。
1900年代始め、「子どもの教育」工房は閉鎖となりましたが、生産はモスクワから70キロ北に離れたセルギエフ・ポッサードにある工房に引き継がれました。
当時のマトリョーシカは高価で売られていましたが、それでも人々を魅了したので、需要も高くなっていきました。マトリョーシカの生産はポッサード全体に広がり、イワノフの工房など、他の工房にも拡大していきました。
マトリョーシカの生産は大変盛んになり、メーカーにはパリからも注文が入ったほどです。そして、ドイツの有名なライプチヒ市場でも販売されるようになりました。
3.様々なイラスト
マトリョーシカの需要が高まるとともに、そのイラストもカラフルに多種多様なものになっていきました。例えば、娘の絵は、サラファンにプラトーク姿、そして籠や包み、花束を持った姿で描かれました。
牧笛を持った牧場の娘の姿、大きな杖を持ったあごひげおじいさん、口ひげの新郎やウエディングドレスの新婦のマトリョーシカも現れました。
マトリョーシカは様々なイラストを持ちあわせてますが、それはサプライズをもたらすためです。例を挙げると、新郎新婦のマトリョーシカは多数の親戚がいて、結婚の日付が書かれています。
作家の博識から生まれたイラストもあります。作家ゴーゴリの生誕100周年を記念して、喜劇「検察官」の登場人物をモチーフにしたマトリョーシカも作られました。
フォークロア(民謡)をイラストにしたものもあります。「大きなかぶ」「金の魚」「イワン王子」「火の鳥」などが描かれました。
入れ子の数も増えていきました。1913年にはニコライ・ブルイチェフが48ピースとなり、マトリョーシカの入れ子記録を達成しました。
現在では少女のみならず、猫をモチーフにしたマトリョーシカも人気を集めています。
4.願い事にも
マトリョーシカは、一番大きい形が母親をイメージされており、そのお腹の中に小さな子供達が入っているのがベースになります。
家庭円満、子どもの繁栄など、幸せを願って作られます。一番小さいものに願い事をして蓋を閉じると、どんな願い事もかなうという側面もあるのです。